2018年07月18日

『郷ひろみのNew York Voice』― その2


 屋久島から鹿児島へは、通常、飛行機で35分程度である。

 その日は台風が近づいていることもあり、私たちが搭乗してエプロンに待機しているときから強風にあおられ、機体がぐらぐらと揺れていた。

 これでは離陸できないかと思えたが、とりあえず無事滑走して離陸。屋久島を出て内地(大隅半島)の上空にいたるまでは、そんなに揺れずにやや快適な飛行だった。台風の影響はなかったなと思ったほどだった。

 ところが、大隅半島上空に差しかかると事態は一変! 機体が揺れる、揺れる! グーッと降下して山肌が目の前に迫り「ああっ!」と思うと、またグーンと上昇して難を逃れる。が、上昇しながら、機体は横にスーッと流されていく。するとまた、グーッと降下して山肌に迫る。そして、上昇しながら流される、の繰り返し。

 キャビンアテンダントも「これは大した揺れではございませんので、皆さん、ご安心ください」とアナウンスするが、心なしか、その声も震えている感じ。

 あの日航機墜落事故からまだ2年ほどしか経っていないときだったので、さすがに、着陸までが長く感じられたし、肝を冷やした。私にとって、それまでの、そしてその後も、いちばん揺れてひどかった飛行体験であった。

 通常30分ちょっとで到着するのが、その日は1時間以上かかって、なんとか無事に鹿児島空港に着陸した。乗客みんなが拍手で喜びを表した。

 鹿児島空港から東京・羽田へは、機体が大きいし、台風からまだ遠いこともあって、ふつうの飛行だった。
posted by 赤井田拓弥 at 14:52| Comment(0) | 雑文

『郷ひろみのNew York Voice』― その1


 昨日、1980年代はタレントを使った英語教材が盛んだったと書いた。そして、1986年には、中年以上の人であればほとんどの人が知っているかも知れない『小林克也のアメリ缶』が一世を風靡した。その教材を制作したのが、私である。
 ここをご覧あれ。

 そして、発売から1年近く経った1987年の夏前、『小林克也のアメリ缶』の制作者が私であることを知った、あるリゾートマンションの会社が英語教材を作りたいとアプローチしてきた。
 その会社がハワイに作ったリゾートマンションの販売キャラクターとして郷ひろみ氏を採用し、そのタイアップとしての教材制作だったようだ。

 『郷ひろみの New York Voice』というタイトルで売り出したいと。

 当時、郷ひろみ氏はニューヨークに住んでおり、1987年の8月末に一時帰国するので、その機会に収録したいというスケジュールになっており、そのため、私は1か月足らずで原稿と収録台本の執筆に追われた。ホテルに缶詰にされたこともある。

 原稿と台本の執筆が終わり、郷ひろみ氏は9月半ばまでは帰国しないだろうということになり、私はその間隙を縫って屋久島に帰省することにした。9月初めのことだった。

 屋久島に4日ほど滞在した頃、台風が近づいていることが分かり、滞在を延ばしてその台風をやり過ごすことにした。すると、東京から電話がかかってきた
 当時はまだ携帯電話などはない時代なので、万一に備えて屋久島の親元の電話番号を教えておいた。

 電話は「郷さんが急に帰国することになったので収録する。赤井田さんもすぐに東京に戻ってきてほしい」という内容。

 台風をやり過ごして帰京しようと思っていたので、のんびりしていたが、急遽、空港に駆けつけて空席状況を問い合わせると、「台風が近づいているので、この便が最後」という飛行機の切符が何とか取れた。

(次に記事に続く)
posted by 赤井田拓弥 at 13:46| Comment(0) | 雑文

2018年07月17日

先日の続き ―― タレントを使った英語教材


 1980年前後の英語教材は、いわゆるタレントを使ったものが多かった。そういうタレントの有名性、認知度が広告効果として発揮されるわけである。
 これは1990年ころまでは残っていたようだが、次第にすたれていった。一部では、有名なプロゴルファーを使った教材も残ってはいるが。

 私が担当した教材でお願いしたのは、次のような方々である。
・シリア・ポール
・キャロライン・洋子
・ケイ・アンナ
・EHエリック


 シリア・ポールさんは、私が大学時代、FM放送で「ダイアトーン・ポップスベストテン」という番組の」DJをやっていた人である。土曜日の午後2時からの1時間番組。当時流行していたポップスを、いろいろなバックグラウンドを交えながら、軽妙なトークで私たちを魅了していた。

 新聞配達の学生の身では部屋にテレビを持つなんてあり得なかったし、販売店ではテレビを見ることができたが、ほとんど洋画を見るために販売店に行くくらいだったので、シリア・ポールさんは何らかの番組に出ていたのかも知れないが、彼女の顔は知らないままだった。

 それでも、彼女は私のアイドルで、この土曜日の番組を楽しみにしていたのである。

 そして、先日も述べた英語教材の編集・制作会社に就職して、ある教材のナレーションをシリア・ポールさんにお願いすることに決まったときは夢のようだった。
 その教材の執筆や編集も担当していたので、彼女のナレーション原稿も私が書くことになった。

 先日書いた「ラジオ講座」の先生のときのように、スタジオでシリア・ポールさんにキューサインを送ったときは感激したものだ。

 そして、前職の会社を辞めて独立してから教材の制作に参加していただいたのは、小林克也さんや郷ひろみさん。

 小林克也さんの『小林克也のアメリ缶』については、こちらをご覧あれ。
posted by 赤井田拓弥 at 14:41| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月15日

9月卒業

 私は1978年9月に大学を卒業した。「えっ! 3月じゃないの?」と思われるかもしれないが、当時の制度(今の制度は分からない)では、9月卒業が可能だった。

 同じ年に入学して留年もしなかった同級生たちは、1976年3月に卒業していた。私は1976年4月から1978年3月まで2年間休学した。
 私が出た大学は当時、休学中は授業料を払う必要はなかった。そして、卒論を除くほかの科目の単位はすべて取得していたので、卒論を提出して合格すれば半年で卒業できることになっていた。

 休学する前にほぼ書き上げていたので、少し修正すればよいだけだったが、修正を始めてみると、いろいろとやることが出てきて、全面書き直し。
 卒論は、日本語と英語の両方を提出することになっていた。2年間のアメリカ留学を経てみると、学生時代に書いた英語がどれほど稚拙であったかを、まざまざと思い知らされたのだった。

 8月の終わり頃に卒論を提出し、担当教授から呼び出しがあり、「合格だ」と伝えられたのが、確か秋分の日前後だったように思う。それですぐに上京することにし、学生課に行って「卒業証書はいずれもらいに来るので保管しておいてほしい」と伝え、東京にやってきた。

 1978年当時は、まだ秋に就職試験を行っていた。それで、ある通信社と大手の新聞社が同日試験だったので新聞社のほうを受験したが、不合格
 それで、しばらくアルバイトでもしようとアルバイトニュースで探したのが、英語教材を中心に執筆・編集・製作をやっていた、前職の編集プロダクションである。

 社長に「正社員になりなさい」と言われたこともあり、3か月後には正社員になった。

 この会社に就職して最初に「感無量だ」と思ったのは、受験勉強中に聴いて勉強していた「大学受験ラジオ講座」の先生だった人と仕事をしたことだ。

 当時の教材は、ラジオ講座のようにテキストを執筆した先生が説明し、それをカセットに収録して売るスタイルのものも多かった。

 「大学受験ラジオ講座」で私が熱心に聞いていた先生をスタジオにお呼びしての収録である。ディレクターとしてその先生にキューサインを送ることになったとき、東京に出てきて英語の教材の制作にかかわる仕事に就いてよかったなと思ったものだった。

 大学受験勉強をしているときのラジオ講座の先生なんて、まさに雲の上の方だと思っていたわけだから。
posted by 赤井田拓弥 at 16:02| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月13日

3ナンバーには近づくな!


 駅からの帰り道に知り合いのバイク屋さんがある。ある晩、この店先に、スズキ自動車の「スイフト」という車が停まっていた。小さいボデーなのに「3ナンバー」だったことから、立ち寄って、店長と客(そのスイフトの持ち主)と私の3人で、話が盛り上がった。

 私の感覚では、「3ナンバーは車体の大きい高級車」なのだが、今では、あまりそういった規定はないらしい。ある一定の数字を超えると「3ナンバー」になるらしい。排気量も2リットルを超える必要は、必ずしもないらしい。
 
 さて、私が大学時代を過ごした北九州の小倉は、言わずと知れたヤクザの街である。

 大学3年に上がる頃、私は車を買った。育英奨学生で新聞配達をしており、新聞店の主任の息子さんが新車に乗り換えるというので、お下がり(もちろん中古)を買ったのだ。確か12万円だったかな。

 もちろん、手取りが月に3万円ちょっとの頃なので、現金の蓄えはない。それで、店から前借りして買い、確か1万円ずつ天引きしてもらった。
 
 そして、車を買ったときにいろいろな人に言われたのが、「3ナンバーには近づくな!」だった。

 当時の小倉で3ナンバーに乗っているのはヤクザに決まっていると。それで、不用意に車間距離を詰めて急ブレーキをかけられ追突したりすると、そりゃ面倒なことになると。

 「車間距離をツメると指をツメることになるよ」と。
posted by 赤井田拓弥 at 09:48| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月12日

『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』

 リリー・フランキーさんの『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』は、彼の自伝小説で、ほぼ事実に沿っていると言われている。たぶん、そうだと思う。

 というのは、私が大学時代に育英奨学生として新聞配達していたときの読者の一軒に、本に書かれている描写とまったく同じ家があったからである。

 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』の、文庫本だと21ページに、次のくだりがある。

   小倉の外れの田舎町。そこにオトンのお姉さんが嫁いだ
  家があった。ボクらはその親戚の家でお世話になり、
  オトンとの別居生活を始めることになった。
      (中略)
   立派な母屋があり、そこに義姉夫婦、二人の子供、
  義兄の両親が住んでいた。そして、母屋の並びには
  かなりの人数を賄える学生寮を二棟営むほどの裕福
  な家庭だった。


 「オトンのお姉さん」とあるので、主人公(リリー・フランキーさん自身のはず)の伯母さんにあたる人の家である。確かに、大きな屋敷と学生寮も、私が覚えている情景と一致する。

 「小倉の外れの田舎町」というのは、今の小倉南区蒲生というところ。そして、次の描写のところも、私の配達区域だった。

   小高い丘に立つ白い巨大な観音様が目印の幼稚園。

 「小高い丘」というのは鷲峯山で、幼稚園は「わしみね幼稚園」で、これは今でもある。

 夕刊の配達で販売店を4時過ぎに出て、このあたりに到着するのが、だいたい6時ちょっと前あたり。学生寮の夕食の準備が整う頃である。

 夕食がいなり寿司の日などは、その「オトンのお姉さん(リリーさんの伯母さん)」が「読売さん、おいなりさん食べていかれんね?」と言われて、食べて帰ることもあった。

 リリー・フランキーさんは1963年生まれなので、この描写の4歳のころというと1967年。私が彼の伯母さんの家に新聞を配達していたのは1973年〜76年なので、オーバーラップしていることはない。

 そして、この学生寮には、私の大学の同級生が2人住んでいた。
posted by 赤井田拓弥 at 12:35| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月11日

同じ釜の飯

 大学時代、私は新聞社の育英奨学生として新聞配達をしながら通学していた。私の勤めた販売店には、4年生大学の学生や、当時北九州市小倉に存在した読売理工専門学校の学生が勤務していた。いつも、だいたい数人が勤めていた。

 部屋が提供され、朝夕の食事が付いていた。ただ、「食事代」は給料から差し引かれていた。同じ店に勤めた奨学生たちは、いわゆる「同じ釜の飯」を食っていたわけだ。

 先日、この「同じ釜の飯を食った」仲間(同い年)が、私のオフィスを訪ねてくれた。

 2人訪ねてきた。もう一人は他店で勤務していたので、同じ釜の飯を常時食っていたわけではないが。4年間同じ釜の飯を食った男は大分に住んでいて、北海道に嫁いだ娘さんが出産し、その孫の顔を見に行った帰りだという。彼に会ったのは、新聞店の店長の葬儀以来で、25年振りくらいになる。

 もう一人は千葉の君津に住んでおり近いのだが、会ったのは育英奨学生を修了して以来42年ぶりだった。
 昔話に花を咲かせ、その中でも盛り上がった新聞店話題のひとつ。

 私の1年のときだった。
 店の先輩が、夕刊配達のあとに受けた電話の対応がよくなかったのか、相手を怒らせてしまった。その相手は「これから行くけぇ、そこで待っちょれ!」と啖呵を切ったらしい。先輩はビビってしまった。
 なにせヤクザの街、小倉だ。

 主任の一人が帰ってきて、みんなの様子がちょっとおかしいので、「なんかあったんか?」と訊く。「こうこういうことがあって、誰かが攻めてくるそうです」と答えると、「よし、分かった」と、その主任はすぐに家に帰った。彼の家は店から歩いて30秒もしないところだ。

 クレームを付けた客がやってくる直前に、その主任が戻ってきた。さらしの腹巻きをし、前の開いた七分袖のシャツを着て、短いズボンと雪駄という出で立ちで戻ってきた。太って腹が出ており、そして坊主頭なので、その姿たるや、まさにヤクザそのもの。

 クレームを付けた客がやって来て、その主任が店先に出迎えた。

  「なんか、うちの若いもんが粗相をしたそうで」

 その客は、「いえ、たいしたことではありません」と、そそくさと帰っていった。
posted by 赤井田拓弥 at 15:06| Comment(0) | 鳥かごの詩