2015年05月26日

「表記=発音」とは限らない。

「表記=発音」とは限らない。

 英語のことではない。日本語である。以前に、山口百恵の鼻濁音がきれいだと書いたことがある。
 きょうは仕事で頭の中が腐るくらい疲れたので、帰りの電車の中では本を読まずに、山口百恵を聴いた。彼女の鼻濁音はしっかりしている。法則どおりに語頭のガ行は濁音で、語の途中のガ行は鼻濁音になっている。

 しかし、きょう「よごれて」の「ご」の音が若干、濁音に近いことに気づいた。例えば、「脱獄」とか「監獄」などのように強い意味を持つ語は、あまり鼻濁音にはしない。なので、「よごれる」も、汚いニュアンスを出すために、鼻濁音にしないほうがいいとされる。

 彼女の発音は天性的なものなのだろうか。それとも、ちゃんとした歌唱指導の先生がずっとついていたのだろうか。ほかの歌手の場合、歌によっては、鼻濁音が徹底していることと混在していることがある
 
 山口百恵の歌できょう気づいたのは、「さまよう」とか「とまどう」を、samayouやtomadouではなく、samayoo、tomadooと発音していることである。やはり美しい。

 高島俊男氏の本に、次のようなことが書いてあった。

 ある小学校の授業参観で『背くらべ』を歌ったところ、ある保護者が「『せえくらべ』って歌っていましたよ。どういう教育しているんですか。ちゃんと『せいくらべ』って歌わせてください」とクレームをつけてきて、教師が困惑した。

 高島氏は「これは保護者のほうが間違っている。『せえくらべ』が正しい」と書いている。私は以前にチェリッシュの『冬物語』という歌で、巡礼を「じゅんれえ」と歌っていて、いいなあと思ったことがある。
posted by 赤井田拓弥 at 22:50| Comment(0) | カリフォルニアの青い空