
几帳面な人で、毎日日記を付けていた。下の写真から分かるように、死んだ朝もひとこと書いている。
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「昨日までの日の出は5時12分だったが、今日から5時13分とおそくなる」
そして、右のページに「幸丸」とあるのは、私の次兄のこと。死んだ前の晩、次兄は父と40分ほど電話で話したそうだ。そのため、次の朝に「あなたのお父さんが亡くなった」という連絡をもらったとき、「誰の父」のことなのか、しばらく理解できなかったらしい。
死んだ後の22日以降は、当然、日記は途切れている。
父が死んだ朝、私はまだ携帯電話を持っていなかったので、会社に着いてからスタッフに聞いた。「お父様が亡くなられたそうです」と。
喪服などは屋久島の友人に借りることにし、そのまま羽田に向かった。
鹿児島への飛行機は飛んだのだが、鹿児島から屋久島への飛行機は、大雨のため欠航。波が高いということで、船も欠航。
その日のうちに屋久島には帰れないということを伝えるために家に電話すると、我が家に詰めていた近所の人が出て、母が大変な錯乱状態だから、なんとしてでも帰って来いと言う。
離島は車で行けないから、こんなときに困る。
母と父は、死ぬわずか1時間前にはいっしょに朝飯を食ったのだという。朝食の後トイレに行き、出てきて猫と戯れていて、そのまま逝ってしまったという。
母も、父にそんな死なれ方をされてしまうと、それは取り乱してしまうだろう。
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