2014年09月24日

50年前の台風

 今年は、現時点(9月24日)で、台風は16号。9月下旬で16号というのは、今年は台風の発生件数が少ない感じである。

 なぜ9月下旬での16号は少ないと思ってしまうのかというと、私の頭には50年前の9月24日に屋久島を襲った台風20号のことが刻み込まれているからであろう。

 50年前(1964年)、私は小学5年生だった。9月24日、東京オリンピックが間近に迫っていた。もっとも、屋久島の者には、東京オリンピックは遠い存在だったが。
 この年、長兄が鹿児島にできた国立工業専門学校の入試に失敗し7月頃まで家にいたが、東京に出たいというので、7月の半ば頃、父が長兄を連れて上京した。
 父は、昭和8年から赤紙(召集令状)が来るまでの10年あまりを東京で過ごした経験があったため、20年ぶりの東京生活が懐かしかったのだろう、なんと2か月以上も東京に居続けた。そして、上の台風20号が屋久島を襲ったときには、まだ帰っていなかった。

 台風が襲った前日の9月23日は、我が家があった長峰集落にある長峰神社の大祭で、公民館で催し物があったため、家族で見に行ったが、台風が近づいているというので、早めに終わった記憶がある。屋外での出店や相撲大会などは中止だった。住民たちは、自分の家の台風対策が気が気ではなかったろう。

 台風の当日9月24日は、休校になった。我が家はブロック造りだったので、家屋全体が飛ばされるという心配はあまりなかったが、中学2年の次兄と私、そして母とで、ガラス戸に戸板を打ち付けたりして台風に備えた。

 その日は朝から暴風雨だった。何もなければ、台風が通り過ぎるのを家の中でじっと待つだけのはずだった。昼近くになって、南向きの玄関の戸板が飛ばされた。
 次にガラス戸が飛ばされてしまうと、風が家の中に入り、屋根がそのまま飛ばされるというので、飛ばされた戸板を探しに行くよりも手で支えていたほうがいいだろうということで、次兄と私とで、玄関のガラス戸をずっと持ち続けた。
 昼飯も祖母が握り飯を作って、手を離せない次兄や私の口に入れてくれた。ときどきやかんの口からお茶を注ぎ込んでくれたり、飴を口に入れてくれたりした。

 屋久島のすぐ西を通過したのが午後2時〜4時ごろで、午後5時に枕崎に上陸して、あたりが薄暗くなるまで、ずっと玄関のガラス戸を持ち続けた。8時間くらいだったろう。

 玄関のガラス戸は南向きなので、ときどき大風で家の向こうの木々が押し倒されるような感じでしなるのを見続けるのは、さすがに恐怖だった。私の記憶の中では、この台風が最も強いものである。

 記録には残っていないようだが、後日、瞬間最大風速は80メートルだったと聞いた記憶がある。我が家があった屋久島の北東部の長峰集落では、7軒が全壊だった。多くの家が半壊だったり傾いたりだったりした。幸い我が家では、瓦が数枚飛んだだけで、豚小屋などにも大きな被害はなかった。
 次の日に、全壊した家を見に行ったが、ほんとうに何も残っていなかった。家があった北側の畑に、家具や柱、瓦などがころがっていただけだった。

1964年の台風20号については、ここをご覧あれ。


posted by 赤井田拓弥 at 11:37| Comment(2) | 屋久島のこと
この記事へのコメント
小学生の頃、台風が来ると、よく停電していました。懐中電灯、蝋燭等を用意して、ラジオの台風情報に聞き入っていました。また、福岡県の遠賀川(1級河川)からそんなに遠くないところに住んでいたので、堤防の決壊を恐れていました。大事には至りませんでしたが、自然の猛威は今でも怖いですね。
Posted by 堺 at 2014年09月24日 18:46
 屋久島では、よほど川に近いところでないと、水の心配はないのですが、倒木などの心配がありますね。
 停電は今でも日常茶飯事のようです。島内で発電していますからね。
 家は、今では頑丈にできているでしょうけど、昔のは、石の上に柱を乗せただけのも多かったようですからね。
Posted by 赤井田拓弥 at 2014年09月24日 19:08
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