2019年06月28日

完璧な仮定法過去の文。


 昔(1978年5月)アムトラックという列車でアメリカ一周旅行をしていたとき、デトロイトからカナダのウィンザーというところに行ってみようと思った。

 エリー湖とセントクレア湖を結ぶ、幅が400メートルくらいのデトロイト川があって、その下をトンネルが通っており、歩いて行ける。

 国境なので、当然、出国手続きをしなければならない。

 トンネルに入る前に念のため、イミグレーションの係官に、パスポートや学生ビザ、大学の主任教授に書いてもらった学生を証明する手紙などを見せ、「どうでしょう、行ったら帰ってこられますか」と訊いた。

すると、彼はこう言った。

If I were you, I wouldn’t go.


完璧な仮定法過去の文だった。

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posted by 赤井田拓弥 at 11:34| Comment(0) | 雑文

2019年06月27日

屋久島のトビウオ


 屋久島では、5月から6月いっぱいくらいがトビウオ漁の最盛期である。

 今では、昔ほどトビウオが獲れなくなったようだが、私が子どもの頃の1960年代には、船が沈みそうなくらい、海面が船縁近くまで上がってくるほどのトビウオを積んで帰ってきていた。

 長兄が中学生の頃は、学校帰りによくトビウオをぶら下げて帰ってきたものだ。学校帰りに通る村の人たちから「にいちゃん、持って帰れ、ほら」ともらったりしたのだそうだ。

 高校の時、朝早くからトビウオ漁に出て、家業の手伝いをする同級生がいた。

 朝4時前に出港し、沖合で網をたぐる。4時間ほどの漁である。
 この同級生は、港に帰ったあと風呂に入ったり着替えたりしてから登校するので、学校に来るのは昼近くになる。枕持参である

 彼は学校に来たあと、窓ぎわの席に着き、枕を使って寝ていた。授業が終わるまでずっと寝ていたから、「学校に来る必要はないのでは」と、私などは思ったくらいだった。

 先生方も彼が何をやっているのか知っているので、授業中の居眠り(と言うか熟睡)をとがめることもなかった。

 そして授業が終わると、彼は律儀に枕を持って帰るのだった。明日も同じように枕を持ってきて寝るのだから、枕は学校に置いていってもよさそうだったが。


ホトトギスとトッピー

 ホトトギスは、初夏にあの独特の鳴き方で現れる。ちょうどトビウオ漁の時期と重なる。

 一般的にはホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」とか「東京特許許可局」だとか言われているが、屋久島では「トッピォトレタカ」と鳴くと言われる。「飛び魚獲れたか」である。
 「トッピォトレタカ、トッピォトレタカ」と鳴きながら、海から山へ飛んでいく。この鳴き方のほうがよほど親しみやすい。

 「テッペンカケタカ」では、何の意味もない。

 また、鹿児島と屋久島、種子島を結ぶ高速船に「トッピー」という名前の船があるが、この「トッピー」もトビウオのことである。

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posted by 赤井田拓弥 at 11:05| Comment(0) | 雑文

2019年06月26日

「キジラ」とは?


 屋久島に移り住んだ人や梅雨時期に屋久島旅行をする人たちを恐れさせているのに、「流し虫」と呼ばれる、羽のあるシロアリの来襲がある。

 梅雨時のムシムシするような夜に大群でやってくる。窓を開けていると、家の中がとんでもないことになる。

 私が子どもの頃、屋久島ではまだ網戸もエアコンも普及しておらず、と言うか、我が家にはその両方ともなかったので、寝るときは、窓を全開にして、蚊帳の中で寝るのだった。

 このシロアリが大群で押し寄せるのはムシムシする梅雨時期なので、当然、窓を開けている。そこへ、大群のシロアリが襲撃してきて、電気にぶつかった畳に落ちる。そして、畳の上を這い回る。

 実際に見たことがない人には想像しにくいかもしれないが、それはおぞましい光景である。

 祖母や両親は、このシロアリのことを「キジラ」と呼んでいた。屋久島生まれの人や屋久島での生活経験がある人に「キジラと呼んでいましたか」と聞いても、そんな記憶はないと言う。

 それで、ネットで調べてみると、鹿児島や宮崎あたりではそう呼ばれているらしい。
 
 話は変わって。

 2か月ほど前に、叔母(父の妹)の一周忌法要があった。法要のあとのお清めの食事のとき屋久島のことを話していると、このシロアリの話題になった。
 すると、従姉の夫(70歳半ば)が「ああ、キジラのことね」と言った。
 
 彼は東京の生まれ育ちである。従姉も東京生まれの東京育ちである。屋久島には40年ほど前に一度行ったことがあるだけのはずだ。それなのに、「キジラ」という言葉を覚えていたとは。
 
 屋久島に行ったときキジラに遭遇し、私の両親や祖母に「キジラ」という名前を聞いたのだろうが、その後、「キジラ」という言葉を東京で耳にすることはなかったはず。
 
 屋久島での「キジラ」の印象がよほど強かったのだろうか。

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posted by 赤井田拓弥 at 15:52| Comment(0) | 屋久島のこと

2019年06月25日

「とぜんね」という言葉


 しとしと雨で畑仕事もできず、かと言って本を読む気にもなれず、テレビはおもしろくなく、飲み始めるにはまだちょっと早いといった休みの日の夕刻、庭にそぼ降る雨を眺めながら、ふと「とぜんね」という鹿児島弁を思い出した。

 これは、「さびしい」とか「無聊な」というような意味で使う。
 
 「とぜんね」は「徒然ね」と書く。「徒然草」や「徒然なるままに」の「徒然」である。

 鹿児島弁では「だいこん」が「でこん」、「かいもの」が「けもん」となるように、音声が同化する。 ai 音は e 音になるのである。
 なので、「」は多くの場合「ない」という意味だ。

 この現象はこちらをご覧あれ。

 熊本や佐賀など、西九州のほうでは「とぜんなか」と言うらしい。「なか」は「ない」の九州音である。
 
 したがって、「とぜんね」や「とぜんなか」は否定の意味になるはずである。

 しかし、である
 
 「徒然」自体が「なすこともなく退屈なこと」なので、それに否定語の「ない」を続けると「退屈ではない」という逆の意味になってしまう。
 
 気になったのでいろいろと調べてみた。
 すると「とぜんなか」も「とぜんね」も肯定の意味らしいと分かってきた。「せわしい」と同じような意味を表す「せわしない」も肯定であるように。
 
 ないもすいこっがねと、とぜんねこっじゃ。
 
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posted by 赤井田拓弥 at 11:07| Comment(0) | 雑文

2019年06月24日

北海道の人が屋久島移住を決心


 もう40数年も前のことだが、ある北海道の人が屋久島に移り住んだ。
 
 その人は当時26,7歳で、北海道でお父さんといっしょに酪農をしていたが、ある冬、1週間だけの約束で休暇をもらい、屋久島旅行にやってきた。

 北海道では、酪農家たちは(酪農家に限らず農家の人たちは、だが)夏のあいだちょっと冬の準備(どういう準備なのか詳しくはきかなった)をサボると、冬のあいだに牛たちを死なせてしまうこともあるらしい。夏のあいだは一日一日が勝負だと言っていた。

 なので、夏のあいだはちょっとした旅行もままならないらしい。
 
 彼は屋久島に到着した日か次の日に、バスで島巡りをしていて屋久島に一目惚れしてしまった! そして、「この島に住む!」と決めたのである。

 その足で役場に駆け込み、「離農した畑が付いていている空家はないか」と交渉した。役場の人も困惑し、なんとか調べるから2〜3日後に来てくれと言って帰ってもらったが、彼は、もう屋久島観光は適当にやってしまい、役場に日参した。

 そして、ようやく見つかった空き家が、私の両親の家の近くである。
 
 屋久島に移住した最大の理由のひとつが、冬でも青々とした草が茂っていることだった。それを見て、「これだと、夏のあいだに少し農作業をサボッても冬に困ることがないのではないか」と思ったのだとか。
 
 親を説得し、北海道を引き払って単身屋久島にやってきた彼だったが、実は、つき合っていた女性を北海道に残していた。

 移り住んだ新居にはまだ電話が引かれていなかったため、彼は毎晩のように、隣家である(と言っても300メートルほどは離れていた)私の親の家にやってきて電話を借り、北海道の恋人に「屋久島に来て一緒に住んでくれ」と電話した。
 
 電話が終わると居残って私の父と飲むことも、よくあったらしい。父は若い飲み友だちができて、電話を借りに来るのを楽しみにしていた。
 
 そして、彼の熱意に押し切られ、ついにその恋人は屋久島にやってきて彼の奥さんになった。
posted by 赤井田拓弥 at 15:24| Comment(0) | 屋久島のこと

2019年06月21日

父のこと

 今日6月21日は、父の命日。1995年6月21日の朝、父は突然死んだ。写真は、父の若かりし頃。
 
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 几帳面な人で、毎日日記を付けていた。下の写真から分かるように、死んだ朝もひとこと書いている。

    <写真はクリックすると拡大します>
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   「昨日までの日の出は5時12分だったが、今日から5時13分とおそくなる」
  
 そして、右のページに「幸丸」とあるのは、私の次兄のこと。死んだ前の晩、次兄は父と40分ほど電話で話したそうだ。そのため、次の朝に「あなたのお父さんが亡くなった」という連絡をもらったとき、「誰の父」のことなのか、しばらく理解できなかったらしい。 

 死んだ後の22日以降は、当然、日記は途切れている。  

 父が死んだ朝、私はまだ携帯電話を持っていなかったので、会社に着いてからスタッフに聞いた。「お父様が亡くなられたそうです」と。

 喪服などは屋久島の友人に借りることにし、そのまま羽田に向かった。

 鹿児島への飛行機は飛んだのだが、鹿児島から屋久島への飛行機は、大雨のため欠航。波が高いということで、船も欠航。
 その日のうちに屋久島には帰れないということを伝えるために家に電話すると、我が家に詰めていた近所の人が出て、母が大変な錯乱状態だから、なんとしてでも帰って来いと言う。

 離島は車で行けないから、こんなときに困る。

 母と父は、死ぬわずか1時間前にはいっしょに朝飯を食ったのだという。朝食の後トイレに行き、出てきて猫と戯れていて、そのまま逝ってしまったという。
 母も、父にそんな死なれ方をされてしまうと、それは取り乱してしまうだろう。

posted by 赤井田拓弥 at 11:23| Comment(0) | 屋久島のこと

2019年06月18日

私が立てた仮説


 ユニクロの国内事業CEOに赤井田真希という人が就任した。

 新潟県出身の人で、以前からお名前は何度も目にしていたくらい有名な人である。40歳でCEOとは、ずいぶん能力が高い人だ。
 
 赤井田という姓は、鹿児島の吹上町と新潟の安田町に多い。福岡や大阪、東京あたりでもちらほら見かけるらしいが、元々、上記の町に由来する人たちだろう。
 現在の鹿児島県日置市吹上町に永吉字小永吉というところがあり、そのまた下に赤井田という字(あざ)がある。ここが赤井田のルーツである。そこには赤井田遺跡という遺跡もある。

 私は屋久島の生まれ育ちだが、両親は上の吹上町の出身で、私が生まれる前に屋久島に移住したのだった。
 
 何かで新潟に赤井田姓が多いことに気づいたとき、こんなことを考えた。

 幕末の戊辰戦争に参加した薩摩軍の兵士に赤井田という姓の人、つまり私の親戚筋の人がいて、江戸を攻めたのち、会津や東北まで進軍していったが、戦後、薩摩に帰るのをあきらめ、越後に足を伸ばして土地の女性と恋におち、そこに居着いてしまった。そして、子が生まれ、赤井田姓が増えた。
 
 もう20年くらい前になるが、安田町役場に手紙を書き、赤井田姓がどのくらいまで遡るものか問い合わせたことがある。すると、1843年に「赤井田元吉」という人の記録があり、それがいちばん古いという返事が返ってきた。
 
 1843年は戊辰戦争よりもずっと前のことなので、私が立てた上の仮説は、みごとにくつがえされたのだった。鹿児島の赤井田とは関係がなかった。

posted by 赤井田拓弥 at 11:20| Comment(0) | 屋久島のこと

2019年06月13日

ネコは自殺する


梅雨時になると思い出すことがある。

もう50年以上も前だが、屋久島の我が家に「つゆ」という名前のネコがいた。

集落の公民館で上映された映画を見た帰り、小川のほとりで鳴いていた子猫を拾ってきた。入梅の日、つまり6月11日だったので、父が「つゆ」と名づけたのだった。

「つゆ」は、なぜか当時中学生だった長兄にいたく懐いた。

長兄は当時、納屋の2階に部屋を作って、そこを勉強部屋兼寝室にしていた。
朝、母や父が「兄ちゃんを起こしてきて」と言うと、納屋の2階の兄の部屋まで起こしに行く。「つゆ」が帰ってくると、必ずそのすぐあとから兄がやって来る。

「つゆ」が帰ってくるのに少し時間がかかることがある。すると兄が、「つゆに耳や鼻を咬まれた」と言うのだ。兄が起きないと、「つゆ」は起きるまであちこち咬んだりしたらしい。
 
長兄が当時できたばかりの国立高専の一期生の受験に失敗し、しばらく家にいたが、「屋久島高校に進学した中学の同級生と会うのが恥ずかしいから、東京に行きたい」と言うので、父が妹(私たちの叔母=去年亡くなった)を頼って二人で上京した。
 
長兄がいなくなって2,3日した頃から、「つゆ」の姿が見えなくなった。
 
あちこち探したところ、家から200メートルほど離れたポンカンの木の根元で死んでいるのが見つかった。
posted by 赤井田拓弥 at 17:44| Comment(0) | 雑文