2018年07月19日

「享年」という言葉


 人が亡くなったとき、「享年80」とか「享年80歳」のような表現が使われる。多くの人はおそらく「享年」という言葉を「その人が亡くなった満年齢」と誤解しているのではないかと思われる。

 「享年」は、死んだ人の年齢を表すのではない。生きた年の数を表す。「年の数」と言っても、「生きた年数」でもない。

 例えば、1901年12月に生まれた人が2000年1月に死ぬと、満98歳だが、「享年は100」である。
 また、1901年1月に生まれた人が2000年12月に死ぬと、満99歳だが、これも「享年100」である。

 なぜか。

 享年というのは「生きた年の数」のことなので、前者の1901年に生まれた人は、1901年も「」と数える。そして、亡くなったのが2000年なので、年の数は「100」である。後者も同じ計算で「100」となる。

 つまり、「享年=満年齢」なのではない。したがって、「享年80歳」や「享年満70歳」のように「」を付けるのは、実はまちがい。

 極端に言うと、12月31日に生まれた子が翌日の元日に死ぬと「享年2」である。わずか1日しか生きていないのに、である。

 ただ、こんな幼くして死んだ子に「享年」は使わない。「天寿を全うしたわけではない」からである。
posted by 赤井田拓弥 at 10:02| Comment(0) | 雑文

2018年07月18日

『郷ひろみのNew York Voice』― その3


 屋久島から帰京した翌日、さっそく、郷ひろみ氏を迎えて収録を行った。

 アメリカ人のナレーター3人と郷ひろみ氏。朝10時から昼食をはさんで午後5時まで。郷氏がニューヨークのマンハッタンをアメリカ人たちと一日旅行をするという設定だった。

 私の役目は、郷氏の発音やイントネーションを教えたり修正したりすること。

 収録の仕事はけっこうハードなので、1時間ごとくらいには休憩をはさむ。

 当時、郷ひろみ氏は新婚ほやほや。新妻の二谷友里恵さんも、途中から録音の応援に駆けつけた。休憩中に控え室のソファーで私が休んでいると、彼女がやってきて、「ボールペンを持ってらっしゃいません?」と訊いてきた。

 持っていたペンを貸してあげると、ピンク電話(当時はまだ携帯電話は普及していない)から「もしもし、原武でございます」と言っているのが聞こえた。郷ひろみ氏の本名は「原武」である。

 二谷友里恵さんに貸して戻ってきたボールペンは、「これは二谷友里恵が触れたペンだ」と大事に取ってあったが、いつのまにか失くなってしまった。


 以上『郷ひろみの New York Voice』制作秘話でした。

 この写真は、収録時に撮ったもの。屋久島でさんざん日光に当たってきて、私の顔は真っ黒。

20130823193033_00003.jpg
posted by 赤井田拓弥 at 14:54| Comment(0) | 雑文

『郷ひろみのNew York Voice』― その2


 屋久島から鹿児島へは、通常、飛行機で35分程度である。

 その日は台風が近づいていることもあり、私たちが搭乗してエプロンに待機しているときから強風にあおられ、機体がぐらぐらと揺れていた。

 これでは離陸できないかと思えたが、とりあえず無事滑走して離陸。屋久島を出て内地(大隅半島)の上空にいたるまでは、そんなに揺れずにやや快適な飛行だった。台風の影響はなかったなと思ったほどだった。

 ところが、大隅半島上空に差しかかると事態は一変! 機体が揺れる、揺れる! グーッと降下して山肌が目の前に迫り「ああっ!」と思うと、またグーンと上昇して難を逃れる。が、上昇しながら、機体は横にスーッと流されていく。するとまた、グーッと降下して山肌に迫る。そして、上昇しながら流される、の繰り返し。

 キャビンアテンダントも「これは大した揺れではございませんので、皆さん、ご安心ください」とアナウンスするが、心なしか、その声も震えている感じ。

 あの日航機墜落事故からまだ2年ほどしか経っていないときだったので、さすがに、着陸までが長く感じられたし、肝を冷やした。私にとって、それまでの、そしてその後も、いちばん揺れてひどかった飛行体験であった。

 通常30分ちょっとで到着するのが、その日は1時間以上かかって、なんとか無事に鹿児島空港に着陸した。乗客みんなが拍手で喜びを表した。

 鹿児島空港から東京・羽田へは、機体が大きいし、台風からまだ遠いこともあって、ふつうの飛行だった。
posted by 赤井田拓弥 at 14:52| Comment(0) | 雑文

『郷ひろみのNew York Voice』― その1


 昨日、1980年代はタレントを使った英語教材が盛んだったと書いた。そして、1986年には、中年以上の人であればほとんどの人が知っているかも知れない『小林克也のアメリ缶』が一世を風靡した。その教材を制作したのが、私である。
 ここをご覧あれ。

 そして、発売から1年近く経った1987年の夏前、『小林克也のアメリ缶』の制作者が私であることを知った、あるリゾートマンションの会社が英語教材を作りたいとアプローチしてきた。
 その会社がハワイに作ったリゾートマンションの販売キャラクターとして郷ひろみ氏を採用し、そのタイアップとしての教材制作だったようだ。

 『郷ひろみの New York Voice』というタイトルで売り出したいと。

 当時、郷ひろみ氏はニューヨークに住んでおり、1987年の8月末に一時帰国するので、その機会に収録したいというスケジュールになっており、そのため、私は1か月足らずで原稿と収録台本の執筆に追われた。ホテルに缶詰にされたこともある。

 原稿と台本の執筆が終わり、郷ひろみ氏は9月半ばまでは帰国しないだろうということになり、私はその間隙を縫って屋久島に帰省することにした。9月初めのことだった。

 屋久島に4日ほど滞在した頃、台風が近づいていることが分かり、滞在を延ばしてその台風をやり過ごすことにした。すると、東京から電話がかかってきた
 当時はまだ携帯電話などはない時代なので、万一に備えて屋久島の親元の電話番号を教えておいた。

 電話は「郷さんが急に帰国することになったので収録する。赤井田さんもすぐに東京に戻ってきてほしい」という内容。

 台風をやり過ごして帰京しようと思っていたので、のんびりしていたが、急遽、空港に駆けつけて空席状況を問い合わせると、「台風が近づいているので、この便が最後」という飛行機の切符が何とか取れた。

(次に記事に続く)
posted by 赤井田拓弥 at 13:46| Comment(0) | 雑文

2018年07月17日

先日の続き ―― タレントを使った英語教材


 1980年前後の英語教材は、いわゆるタレントを使ったものが多かった。そういうタレントの有名性、認知度が広告効果として発揮されるわけである。
 これは1990年ころまでは残っていたようだが、次第にすたれていった。一部では、有名なプロゴルファーを使った教材も残ってはいるが。

 私が担当した教材でお願いしたのは、次のような方々である。
・シリア・ポール
・キャロライン・洋子
・ケイ・アンナ
・EHエリック


 シリア・ポールさんは、私が大学時代、FM放送で「ダイアトーン・ポップスベストテン」という番組の」DJをやっていた人である。土曜日の午後2時からの1時間番組。当時流行していたポップスを、いろいろなバックグラウンドを交えながら、軽妙なトークで私たちを魅了していた。

 新聞配達の学生の身では部屋にテレビを持つなんてあり得なかったし、販売店ではテレビを見ることができたが、ほとんど洋画を見るために販売店に行くくらいだったので、シリア・ポールさんは何らかの番組に出ていたのかも知れないが、彼女の顔は知らないままだった。

 それでも、彼女は私のアイドルで、この土曜日の番組を楽しみにしていたのである。

 そして、先日も述べた英語教材の編集・制作会社に就職して、ある教材のナレーションをシリア・ポールさんにお願いすることに決まったときは夢のようだった。
 その教材の執筆や編集も担当していたので、彼女のナレーション原稿も私が書くことになった。

 先日書いた「ラジオ講座」の先生のときのように、スタジオでシリア・ポールさんにキューサインを送ったときは感激したものだ。

 そして、前職の会社を辞めて独立してから教材の制作に参加していただいたのは、小林克也さんや郷ひろみさん。

 小林克也さんの『小林克也のアメリ缶』については、こちらをご覧あれ。
posted by 赤井田拓弥 at 14:41| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月15日

9月卒業

 私は1978年9月に大学を卒業した。「えっ! 3月じゃないの?」と思われるかもしれないが、当時の制度(今の制度は分からない)では、9月卒業が可能だった。

 同じ年に入学して留年もしなかった同級生たちは、1976年3月に卒業していた。私は1976年4月から1978年3月まで2年間休学した。
 私が出た大学は当時、休学中は授業料を払う必要はなかった。そして、卒論を除くほかの科目の単位はすべて取得していたので、卒論を提出して合格すれば半年で卒業できることになっていた。

 休学する前にほぼ書き上げていたので、少し修正すればよいだけだったが、修正を始めてみると、いろいろとやることが出てきて、全面書き直し。
 卒論は、日本語と英語の両方を提出することになっていた。2年間のアメリカ留学を経てみると、学生時代に書いた英語がどれほど稚拙であったかを、まざまざと思い知らされたのだった。

 8月の終わり頃に卒論を提出し、担当教授から呼び出しがあり、「合格だ」と伝えられたのが、確か秋分の日前後だったように思う。それですぐに上京することにし、学生課に行って「卒業証書はいずれもらいに来るので保管しておいてほしい」と伝え、東京にやってきた。

 1978年当時は、まだ秋に就職試験を行っていた。それで、ある通信社と大手の新聞社が同日試験だったので新聞社のほうを受験したが、不合格
 それで、しばらくアルバイトでもしようとアルバイトニュースで探したのが、英語教材を中心に執筆・編集・製作をやっていた、前職の編集プロダクションである。

 社長に「正社員になりなさい」と言われたこともあり、3か月後には正社員になった。

 この会社に就職して最初に「感無量だ」と思ったのは、受験勉強中に聴いて勉強していた「大学受験ラジオ講座」の先生だった人と仕事をしたことだ。

 当時の教材は、ラジオ講座のようにテキストを執筆した先生が説明し、それをカセットに収録して売るスタイルのものも多かった。

 「大学受験ラジオ講座」で私が熱心に聞いていた先生をスタジオにお呼びしての収録である。ディレクターとしてその先生にキューサインを送ることになったとき、東京に出てきて英語の教材の制作にかかわる仕事に就いてよかったなと思ったものだった。

 大学受験勉強をしているときのラジオ講座の先生なんて、まさに雲の上の方だと思っていたわけだから。
posted by 赤井田拓弥 at 16:02| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月13日

3ナンバーには近づくな!


 駅からの帰り道に知り合いのバイク屋さんがある。ある晩、この店先に、スズキ自動車の「スイフト」という車が停まっていた。小さいボデーなのに「3ナンバー」だったことから、立ち寄って、店長と客(そのスイフトの持ち主)と私の3人で、話が盛り上がった。

 私の感覚では、「3ナンバーは車体の大きい高級車」なのだが、今では、あまりそういった規定はないらしい。ある一定の数字を超えると「3ナンバー」になるらしい。排気量も2リットルを超える必要は、必ずしもないらしい。
 
 さて、私が大学時代を過ごした北九州の小倉は、言わずと知れたヤクザの街である。

 大学3年に上がる頃、私は車を買った。育英奨学生で新聞配達をしており、新聞店の主任の息子さんが新車に乗り換えるというので、お下がり(もちろん中古)を買ったのだ。確か12万円だったかな。

 もちろん、手取りが月に3万円ちょっとの頃なので、現金の蓄えはない。それで、店から前借りして買い、確か1万円ずつ天引きしてもらった。
 
 そして、車を買ったときにいろいろな人に言われたのが、「3ナンバーには近づくな!」だった。

 当時の小倉で3ナンバーに乗っているのはヤクザに決まっていると。それで、不用意に車間距離を詰めて急ブレーキをかけられ追突したりすると、そりゃ面倒なことになると。

 「車間距離をツメると指をツメることになるよ」と。
posted by 赤井田拓弥 at 09:48| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月12日

『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』

 リリー・フランキーさんの『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』は、彼の自伝小説で、ほぼ事実に沿っていると言われている。たぶん、そうだと思う。

 というのは、私が大学時代に育英奨学生として新聞配達していたときの読者の一軒に、本に書かれている描写とまったく同じ家があったからである。

 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』の、文庫本だと21ページに、次のくだりがある。

   小倉の外れの田舎町。そこにオトンのお姉さんが嫁いだ
  家があった。ボクらはその親戚の家でお世話になり、
  オトンとの別居生活を始めることになった。
      (中略)
   立派な母屋があり、そこに義姉夫婦、二人の子供、
  義兄の両親が住んでいた。そして、母屋の並びには
  かなりの人数を賄える学生寮を二棟営むほどの裕福
  な家庭だった。


 「オトンのお姉さん」とあるので、主人公(リリー・フランキーさん自身のはず)の伯母さんにあたる人の家である。確かに、大きな屋敷と学生寮も、私が覚えている情景と一致する。

 「小倉の外れの田舎町」というのは、今の小倉南区蒲生というところ。そして、次の描写のところも、私の配達区域だった。

   小高い丘に立つ白い巨大な観音様が目印の幼稚園。

 「小高い丘」というのは鷲峯山で、幼稚園は「わしみね幼稚園」で、これは今でもある。

 夕刊の配達で販売店を4時過ぎに出て、このあたりに到着するのが、だいたい6時ちょっと前あたり。学生寮の夕食の準備が整う頃である。

 夕食がいなり寿司の日などは、その「オトンのお姉さん(リリーさんの伯母さん)」が「読売さん、おいなりさん食べていかれんね?」と言われて、食べて帰ることもあった。

 リリー・フランキーさんは1963年生まれなので、この描写の4歳のころというと1967年。私が彼の伯母さんの家に新聞を配達していたのは1973年〜76年なので、オーバーラップしていることはない。

 そして、この学生寮には、私の大学の同級生が2人住んでいた。
posted by 赤井田拓弥 at 12:35| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月11日

同じ釜の飯

 大学時代、私は新聞社の育英奨学生として新聞配達をしながら通学していた。私の勤めた販売店には、4年生大学の学生や、当時北九州市小倉に存在した読売理工専門学校の学生が勤務していた。いつも、だいたい数人が勤めていた。

 部屋が提供され、朝夕の食事が付いていた。ただ、「食事代」は給料から差し引かれていた。同じ店に勤めた奨学生たちは、いわゆる「同じ釜の飯」を食っていたわけだ。

 先日、この「同じ釜の飯を食った」仲間(同い年)が、私のオフィスを訪ねてくれた。

 2人訪ねてきた。もう一人は他店で勤務していたので、同じ釜の飯を常時食っていたわけではないが。4年間同じ釜の飯を食った男は大分に住んでいて、北海道に嫁いだ娘さんが出産し、その孫の顔を見に行った帰りだという。彼に会ったのは、新聞店の店長の葬儀以来で、25年振りくらいになる。

 もう一人は千葉の君津に住んでおり近いのだが、会ったのは育英奨学生を修了して以来42年ぶりだった。
 昔話に花を咲かせ、その中でも盛り上がった新聞店話題のひとつ。

 私の1年のときだった。
 店の先輩が、夕刊配達のあとに受けた電話の対応がよくなかったのか、相手を怒らせてしまった。その相手は「これから行くけぇ、そこで待っちょれ!」と啖呵を切ったらしい。先輩はビビってしまった。
 なにせヤクザの街、小倉だ。

 主任の一人が帰ってきて、みんなの様子がちょっとおかしいので、「なんかあったんか?」と訊く。「こうこういうことがあって、誰かが攻めてくるそうです」と答えると、「よし、分かった」と、その主任はすぐに家に帰った。彼の家は店から歩いて30秒もしないところだ。

 クレームを付けた客がやってくる直前に、その主任が戻ってきた。さらしの腹巻きをし、前の開いた七分袖のシャツを着て、短いズボンと雪駄という出で立ちで戻ってきた。太って腹が出ており、そして坊主頭なので、その姿たるや、まさにヤクザそのもの。

 クレームを付けた客がやって来て、その主任が店先に出迎えた。

  「なんか、うちの若いもんが粗相をしたそうで」

 その客は、「いえ、たいしたことではありません」と、そそくさと帰っていった。
posted by 赤井田拓弥 at 15:06| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月10日

ハクビシンと百姓の攻防戦

 If it had rained yesterday, those masked palm civets would have kept eating my watermelons.
「昨日雨が降っていれば、ハクビシンたちは私の西瓜を食い放題だっただろう」(仮定法過去完了)

 昨日の月曜日には雨が降る予想になっていたのに、八王子ではまったく降らなかった。なので、今朝はしぶしぶ早起きして、畑に水やりに行った。

 前から育っている夏野菜は、そんなに水をやる必要はないのだが、最近種を蒔いたばかりのニンジンやゴボウ、追加で植えたキュウリなどには、まだまだ水やりが必要だ。

 昨日、雨が降ってくれさえいればなぁ。I wish it had only rained yesterday. と愚痴りながら。
 
 水やりを終え、「西瓜は新しく着果したかなぁ。ミツバチさんたちは頑張ってくれているかなぁ」と西瓜畑を見回って愕然とした。
 なんと! 西瓜が喰われている! あんなに頑強にネットで防御したのに。

 どこから侵入したのだろうと、ネットをぐるりと見回ると、1か所、ネットが地面から浮いているところが見つかった。そして、その下を引っ掻いたような跡が。

 ああ、ここは日曜日に雑草を熊手でそぎ取ったところだ。その作業のあと、ネットに土寄せをするのを忘れていたのだ。
 
 それにしても、ハクビシンは、こうしたわずかばかりの隙間をよく探し出すものだ。日曜日の夜か昨夜、たまたまやって来て見つけたというのではないだろう。毎晩やってきてはいたのだが、今までは隙間を探せなかっただけだろうと思う。
 
 考えてみると、昨日雨が降らなかったのが逆によかったことになる。雨が降って十分な湿り気があれば、週末まで畑に行かず、ハクビシンたちは西瓜の食い放題になっていたはずだ。

 百姓とハクビシンの攻防戦は、まだまだ続く。

ちなみに、今、この本を無料ダウンロードキャンペーン中です。
posted by 赤井田拓弥 at 10:56| Comment(0) | 農事通信

2018年07月09日

虫の声を愛でる

 小泉八雲の作品に『草雲雀』という短編がある。草雲雀というのは、鈴虫やこおろぎのこと。
 次のように表現している。

 「非常に小さい電鈴の音のやうな、かすかな、かすかな銀鈴が波だち顫へるやうな聲で、部屋がいつぱいになり初める。」
 
 彼はイギリス人である。イギリス人なのに(敢えて「なのに」を使うが)、虫の声を愛でる心がある。
 
 なぜ「なのに」を使ったかというと、藤原正彦氏のエッセイに次のようなくだりがあり、イギリス人は虫の声を愛でるのではなく noise と捉えていると思えるからである。

 来日したイギリス人の友人を、藤原氏が自宅での夕食に招いた。食事中、庭の虫が泣き出すと、その友人が What's that noise? と言ったそうだ。

 noise は、「不快に聞こえる音」である。
posted by 赤井田拓弥 at 23:12| Comment(0) | 英語で英文法

同乗者を確認せずに

 我が畑の隣を耕作しているのは、70代のご夫婦。家が遠いので、車で来る。

 きょう、私よりも先に仕事を終えて帰っていったが、車が出て行ってから、奥さんが「お父さん! お父さん!」と叫んでいるので「どうしたんですか?」ときくと、「私を置いてっちゃった」と。
 
 別にけんかをして奥さんを置いていったわけではない。
 
 奥さんはいつも後部座席に乗る。ご主人は奥さんが乗ったものと思ったらしい。

 奥さんに訊くと「たぶん、家に帰り着くまで気がつかないと思うよ」だと。これで2回目だそうだ。

 ほんとうにしばらく(たぶん40分くらい)してから、ご主人が戻ってきた。話すのを聴いていると、ご主人が言うには「後ろのドアがバタンと言ったから、お前が乗ったと思ったんだよ」と。
 
 家に帰り着くまで、バックミラーを見たり話しかけたりしないのだろうか。
posted by 赤井田拓弥 at 10:45| Comment(0) | 農事通信