2018年07月31日

幼児、児童、生徒、学生


 フェイスブックなどで、「私が中学校の学生だった時」というような表現を見ることがある。「老人性口害症候群」の私は、こうしたちょっとした言葉の使い分けが気になって、何か言いたくなる。

 ざっくり述べると、小学校入学前が「幼児」、小学生が「児童」、中等教育在籍者である中学生と高校生が「生徒」、それ以上の高等教育を受けている者が「学生」である。

 ただ、幼児も、特に1歳未満は「新生児」や「乳児」で、それ以降を「幼児」と区別することも多い。また、幼稚園や保育園に通う子は「園児」と呼ばれることも多い。

 そして、小学生は「児童」だが、児童福祉法では「満18歳に満たない子供すべて」が「児童」である。また、労働基準法では、15歳以下が「児童」である。

 ただ一般的に話したり書いたりする場合には、「児童」は小学生に対して使う。

 「中学生や高校生は『学生服』を着ているから、中学生や高校生も『学生』では?」と思う人もあるかも知れないが、学生服は、明治に東京帝国大学が決めた「詰襟型の制服」がルーツになっているもので、後年、高校や中学が制服として採り入れたのである。

 塾や社会人向けの各種学校などでは、大学生や社会人に対しても「生徒(さん)」と呼ぶことがあるが、これは「(教える側の)先生」対「(習う側の)生徒」という発想から来ているのであろう。

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2018年07月30日

studentとは誰?


 ある TOEFL 対策の本に primary student(小学生)が何度が登場し、最初は a primary student なので「小学生」と訳されていたが、あとのほうで the student と略されると、その本の執筆者はそれを「学生」と訳していた。
 ふつう、日本では小学生を「学生」とは言わない。

 英語では園児を student 呼ぶことはまずないが、小学生を student というのはごくふつうである。私たちは「小学生」は pupil と習うかと思うが、日常生活では、小学生は a primary school student と言うのがふつうである。

 同様に、「中学生」は junior high school student あるいは junior high studentで、高校生は high school student である。

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2018年07月29日

「やる」と「あげる」


 高島俊男氏の本に次のようなことが書いてある。

  「宿題を見てやる」と言えば自分の子であり、
  「宿題を見てあげる」と言えばよその子である。

 
 これに拠れば、「犬にえさをやる」と言えば自分の犬であり、「えさをあげる」と言えばよその犬になる。
 ただ、よその犬でも「えさをやる」が本来の使い方だろうが。

 ところが今では、自分の犬でも「えさをやる」と言う人は少なく、多くの人が「えさをあげる」と言うと思う。
 
 栗原小巻さんと、先日亡くなった加藤剛さん主演の『忍ぶ川』(昭和47年)という映画の中に次のようなシーンがある。
 
 小巻さんが、ある会社員と強引に交際をさせられ、そのことを加藤剛さんに告げるシーンである。

 小巻さんが「それで、その方が私の体をほしがり始めたんです」と言うと、加藤剛さんが「それで、やったのか」と問い詰める。
 
 この「やったのか」を「エッチしたのか」という意味にとって解説しているブログもある。結果は同じかも知れないが。

 今では「やる」を「与える」という意味にとらない人が多いのだろう。


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2018年07月28日

無料ダウンロードキャンペーン。

今、ここで拙著の無料ダウンロードキャンペーン中。 さあ、どの本でしょうか。2冊あります。
posted by 赤井田拓弥 at 22:34| Comment(0) | 雑文

2018年07月27日

エレベーターに閉じ込められたこと


 昨日(2018年7月26日)に、東京都多摩市の建設現場で大きな火事があり、数人の死者と数十人のけが人が出た。

 ニュースで逃げ延びた作業員にインタビューしていた。その人が「ああ、もう自分はこのままここで死ぬんだろうなと思った」と答えていたが、よく分かる。

 実は私も、30年くらい前に「自分はこのままここで死ぬんだろう」と思った経験がある。

 ある古いビルで、エレベーターに1人で乗っていて閉じ込められたのだ。
 

 初めは、そのうちに動くだろうと思っていたが、ベルを押してもドアを叩いて呼びかけても、10分ほどは、何も応答は無し。

 そのうち、エレベーターの箱の中に煙が入って来はじめた。そして、外では救急車や消防車のサイレンの音が鳴り始めた。煙はどんどん濃くなっていった。

 私は、ビル全体が火事で、そのうち自分はエレベーターの中で蒸し焼きになって死ぬんだろうと覚悟した。遺書を書かなきゃとも思った。
 もし体が焼けるのだったら、遺書も焼けただろうけど。

 そうこうするうちに助け出された。
 実際には、エレベーターのワイヤーが外れ、そのまま回り続けたために、滑車か何かのオイルが焼けて煙を出していたのだった。
 
 それ以来ずっと閉所恐怖症だった。車を運転していて長いトンネルに入ると、途中で動悸が激しくなり、顔がほてってきた。

 しかし、10年くらい前から、エレベーターに1人で乗るのも、あまり苦にはならなくなった。

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posted by 赤井田拓弥 at 15:18| Comment(0) | 雑文

ゆで卵の時間


 テレビで半熟卵の作り方を見ていて、ふと思い出した。

 アメリカに行ってひと月ほど経ったころ、同じ大学に通う日本人4人で、サンディエゴに遊びに行くことになった。

 昼飯を食おうとファミリーレストランに入った。

 友人の一人がゆで卵を注文すると、ウェイトレスは How many minutes? ときいてきた。彼はとっさに、おそらく何も考えずに、Three minutes. と答えた。

 そして、出てきたゆで卵は、割ってみると、ほとんど生卵だった。

 ゆで卵は、実際には10数分はかかるようだ。

 当時、私たちはまだ二十歳ちょっとすぎの若造だったから、ゆで卵を作るのにどのくらいの時間がかかるかも知らなかったし、また、日本ではゆで卵を頼めば、出来合いのものが出てくるのがふつうなので、「何分ゆでますか」という質問が来るなど想像もしていなかったのである。

 そして、「アメリカでは何でも個人の希望を訊いてくるんだね」と、みんなで感心したのであった。

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posted by 赤井田拓弥 at 11:02| Comment(0) | 雑文

2018年07月26日

「ふれあい何々」という言葉


 高島俊男氏の『お言葉ですが…D キライなことば勢揃い』に、「ふれあい」という言葉が気色悪いと出てくる。
 「ふれあい図書館」とか「ふれあい体育館」とか。

 確かに、「ふれあい体育館」、「「ふれあいバス」、「ふれあい電車」などは、気色悪い。私もキライである。

 そして高島氏は、『学研現代新国語辞典』の「ふれあう」の項に「たがいにわかりあったような気持ちになる」という説明があることに、「これは傑作だ」と喝采している。

 辞書も捨てたものではない。

 私はこの辞書を持っていないので、ほかの小辞典でチェックしてみた。ある辞書の「ふれあう」の項には、次の説明があった。

   「接近した結果、両者の間に間隙が無くなる

 そして例文は、こうである。

   「唇と唇がふれあう」
 
 辞書の編纂者たちは、「手と手がふれあう」くらいでは物足りないと思ったのだろうな。

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posted by 赤井田拓弥 at 10:12| Comment(0) | 雑文

2018年07月25日

私が住んだ砂漠の町


 連日の猛暑で、昔住んだアメリカの町を思い出す。

 下の、「水曜日が50℃の予測」となっているのは、私が通った大学がある町で、ふつうに人が住んでいる。私の友人も、何人か住んでいる。
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 「明日と水曜日の予測が52℃」となっている下の写真は Death Valley。文字通り「死の谷」で、ここには人は住めない。

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 私が住んでいたのは、大学がある町から10マイルほど東の Indio という町。当時はメキシコ系の人たちが多かった。Wikipedia には、次のような説明がある。

  It has an average 335 days of sunshine, and total of 156 days of high temperatures over 100 °F (38 °C).
  「晴天の日が平均335日、摂氏38度を超える日が156日ある」

 残りの30日は雨かと言うとそうではなく、曇り。雨は年に1日か2日だけ。一片の雲すら見ない日が1週間も10日も続いたりする。

 この町である夏、私は華氏122度(摂氏50度)を経験した。こんな猛暑の中、マクドナルドに昼飯を食いに行った。

 冷房の効いた屋内のダイニングルームは満席で、私は外で食った。スズメがやって来たので、やや長めのフレンチフライを1本投げてやった。
 すると、そのスズメはフレンチフライをくわえて飛び去ろうとしたが、重すぎたのか、それとも猛暑でバテて力が足りなかったのか、くわえてみたのはよかったが、飛び立てないのであった。

 これを英語で言うと、
       
 The sparrow couldn't fly with a piece of French fry.


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posted by 赤井田拓弥 at 11:02| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2018年07月24日

元旦と元日


 「元旦」と「元日」を使い分けられていない小説や本の記事に出会うことがある。
 ちょっとしたことだが、「元旦の夜に」という表現があったりするのである。そういった表現に出会うと、それまでファンの作家だったりすると、がっかりである。

 「」は地上(水平線上)に朝日が昇る様子を示す語とされる。つまり、「」のことである。早旦は「早朝」、明旦は「明日の朝」のことである。
 したがって、「元旦の午後」とか「元旦の夜」という表現は間違いである。


正月に出る月

 また、江戸期や明治維新前後を場面にした時代小説で、大晦日や正月に月が出ている設定になっているのに出会ったりするが、これは間違い。旧暦では、月末や月初めは新月で、月は出ない

 明治5年に改暦になり、新暦の明治6年1月1日になったときは、旧暦では12月3日に当たるため、三日月かほぼ新月。なので、人々が違和感を抱くことは特になかったらしい。

 しかし、その翌年、明治7年1月1日は旧暦では11月13日に相当し、満月に近かった。そのため、多くの人が「お正月にお月さんが出ているなんて」と不思議がったそうだ。


元年

 テレビで、ある芸人が「平成元年の1月3日に」と言ったのを聞いたことがある。しかし、平成元年に1月3日はない。平成元年は1月7日からである。
 同じように、昭和元年にも大正元年にも元日はない。天皇崩御の翌日から新元号になるからである。しかし、明治元年には1月1日が存在する。

 なぜか。

 慶応4年9月8日より明治に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため、慶応4年1月1日が明治元年1月1日になったのである。ただし、これは旧暦の1月1日である。

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posted by 赤井田拓弥 at 10:13| Comment(0) | 雑文

2018年07月23日

馬の背を分ける雨


 連日の猛暑で、私の畑の作物は水不足で瀕死の状態。一雨がほしい。それで、つい「東京アメッシュ」で夕立が来ないかをチェックしたりする。

 毎日と言ってもよいほど、東京の西の山間部では、「東京アメッシュ」に雨のマークが現れ、少しずつ東に移動して、私に雨の期待感を持たせる。

 しかし、大抵は我が畑があるあたりの少し西側で、雨マークが消滅していくのだ。これを見ると、いつも「馬の背を分ける雨」という言葉を思い浮かべる。

 「馬の背を分ける雨」というのは、夏の夕立を表す言葉で、ある一部だけに激しく降り、その外側はまったく濡れてもいないような降り方を言う。

 私は、この「馬の背を分ける雨」を実体験したことがある。

 若い頃、調布の草野球チームに参加していた。ほかの5チームほどで、リーグ戦のようなことをやっており、春先から12月くらいまで、2週間に1度くらいの割で試合をしていた。

 試合場は、だいたい今の味の素サッカースタジアムがあるあたりで、何面かのフィールドがあった。

 ある夏の午後、試合中にセカンドのちょっと後ろから向こう側だけが土砂降りになったのだ。なのに、こちらのダイアモンド側にはまったく降らず、地面も砂ぼこりが立つくらい乾いていた。

 試合を中断するほどでもなく、守備が終わって戻ってきたライトとセンターの選手は全身ずぶ濡れだったのである。そして、私たちは何ともないという奇妙な経験だった。

 ちなみに、私はサードを守っていたので濡れなかった。

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posted by 赤井田拓弥 at 12:28| Comment(0) | 雑文

2018年07月21日

還暦という言葉


 ネットのニュース記事などに「俳優の○○さんは、7月で還暦になります」という表現があったりする。
 また以前に、10月に放送されたテレビ番組で、NHKのアナウンサーが「私は来月、還暦になります」と言っているのを聞いたことがある。

 「還暦」は読んで字のごとく、「干支(十干十二支)」の誕生年の暦がひとまわりして戻ってくることである。つまり、「」である。「年齢」ではない。

 「」であるから、迎えるのは年明け、正月である。誕生日ではないのである。したがって、「7月に還暦」とか、10月に「来月還暦です」と言うのは間違い。

 また、還暦は暦であるから、「迎える」ものであって「なる」ものではない。

 なので、「私は来月還暦になります」と言うと、「人が暦になる」ことになる。
posted by 赤井田拓弥 at 10:48| Comment(0) | 雑文

2018年07月19日

「享年」という言葉


 人が亡くなったとき、「享年80」とか「享年80歳」のような表現が使われる。多くの人はおそらく「享年」という言葉を「その人が亡くなった満年齢」と誤解しているのではないかと思われる。

 「享年」は、死んだ人の年齢を表すのではない。生きた年の数を表す。「年の数」と言っても、「生きた年数」でもない。

 例えば、1901年12月に生まれた人が2000年1月に死ぬと、満98歳だが、「享年は100」である。
 また、1901年1月に生まれた人が2000年12月に死ぬと、満99歳だが、これも「享年100」である。

 なぜか。

 享年というのは「生きた年の数」のことなので、前者の1901年に生まれた人は、1901年も「」と数える。そして、亡くなったのが2000年なので、年の数は「100」である。後者も同じ計算で「100」となる。

 つまり、「享年=満年齢」なのではない。したがって、「享年80歳」や「享年満70歳」のように「」を付けるのは、実はまちがい。

 極端に言うと、12月31日に生まれた子が翌日の元日に死ぬと「享年2」である。わずか1日しか生きていないのに、である。

 ただ、こんな幼くして死んだ子に「享年」は使わない。「天寿を全うしたわけではない」からである。
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2018年07月18日

『郷ひろみのNew York Voice』― その3


 屋久島から帰京した翌日、さっそく、郷ひろみ氏を迎えて収録を行った。

 アメリカ人のナレーター3人と郷ひろみ氏。朝10時から昼食をはさんで午後5時まで。郷氏がニューヨークのマンハッタンをアメリカ人たちと一日旅行をするという設定だった。

 私の役目は、郷氏の発音やイントネーションを教えたり修正したりすること。

 収録の仕事はけっこうハードなので、1時間ごとくらいには休憩をはさむ。

 当時、郷ひろみ氏は新婚ほやほや。新妻の二谷友里恵さんも、途中から録音の応援に駆けつけた。休憩中に控え室のソファーで私が休んでいると、彼女がやってきて、「ボールペンを持ってらっしゃいません?」と訊いてきた。

 持っていたペンを貸してあげると、ピンク電話(当時はまだ携帯電話は普及していない)から「もしもし、原武でございます」と言っているのが聞こえた。郷ひろみ氏の本名は「原武」である。

 二谷友里恵さんに貸して戻ってきたボールペンは、「これは二谷友里恵が触れたペンだ」と大事に取ってあったが、いつのまにか失くなってしまった。


 以上『郷ひろみの New York Voice』制作秘話でした。

 この写真は、収録時に撮ったもの。屋久島でさんざん日光に当たってきて、私の顔は真っ黒。

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posted by 赤井田拓弥 at 14:54| Comment(0) | 雑文

『郷ひろみのNew York Voice』― その2


 屋久島から鹿児島へは、通常、飛行機で35分程度である。

 その日は台風が近づいていることもあり、私たちが搭乗してエプロンに待機しているときから強風にあおられ、機体がぐらぐらと揺れていた。

 これでは離陸できないかと思えたが、とりあえず無事滑走して離陸。屋久島を出て内地(大隅半島)の上空にいたるまでは、そんなに揺れずにやや快適な飛行だった。台風の影響はなかったなと思ったほどだった。

 ところが、大隅半島上空に差しかかると事態は一変! 機体が揺れる、揺れる! グーッと降下して山肌が目の前に迫り「ああっ!」と思うと、またグーンと上昇して難を逃れる。が、上昇しながら、機体は横にスーッと流されていく。するとまた、グーッと降下して山肌に迫る。そして、上昇しながら流される、の繰り返し。

 キャビンアテンダントも「これは大した揺れではございませんので、皆さん、ご安心ください」とアナウンスするが、心なしか、その声も震えている感じ。

 あの日航機墜落事故からまだ2年ほどしか経っていないときだったので、さすがに、着陸までが長く感じられたし、肝を冷やした。私にとって、それまでの、そしてその後も、いちばん揺れてひどかった飛行体験であった。

 通常30分ちょっとで到着するのが、その日は1時間以上かかって、なんとか無事に鹿児島空港に着陸した。乗客みんなが拍手で喜びを表した。

 鹿児島空港から東京・羽田へは、機体が大きいし、台風からまだ遠いこともあって、ふつうの飛行だった。
posted by 赤井田拓弥 at 14:52| Comment(0) | 雑文

『郷ひろみのNew York Voice』― その1


 昨日、1980年代はタレントを使った英語教材が盛んだったと書いた。そして、1986年には、中年以上の人であればほとんどの人が知っているかも知れない『小林克也のアメリ缶』が一世を風靡した。その教材を制作したのが、私である。
 ここをご覧あれ。

 そして、発売から1年近く経った1987年の夏前、『小林克也のアメリ缶』の制作者が私であることを知った、あるリゾートマンションの会社が英語教材を作りたいとアプローチしてきた。
 その会社がハワイに作ったリゾートマンションの販売キャラクターとして郷ひろみ氏を採用し、そのタイアップとしての教材制作だったようだ。

 『郷ひろみの New York Voice』というタイトルで売り出したいと。

 当時、郷ひろみ氏はニューヨークに住んでおり、1987年の8月末に一時帰国するので、その機会に収録したいというスケジュールになっており、そのため、私は1か月足らずで原稿と収録台本の執筆に追われた。ホテルに缶詰にされたこともある。

 原稿と台本の執筆が終わり、郷ひろみ氏は9月半ばまでは帰国しないだろうということになり、私はその間隙を縫って屋久島に帰省することにした。9月初めのことだった。

 屋久島に4日ほど滞在した頃、台風が近づいていることが分かり、滞在を延ばしてその台風をやり過ごすことにした。すると、東京から電話がかかってきた
 当時はまだ携帯電話などはない時代なので、万一に備えて屋久島の親元の電話番号を教えておいた。

 電話は「郷さんが急に帰国することになったので収録する。赤井田さんもすぐに東京に戻ってきてほしい」という内容。

 台風をやり過ごして帰京しようと思っていたので、のんびりしていたが、急遽、空港に駆けつけて空席状況を問い合わせると、「台風が近づいているので、この便が最後」という飛行機の切符が何とか取れた。

(次に記事に続く)
posted by 赤井田拓弥 at 13:46| Comment(0) | 雑文

2018年07月17日

先日の続き ―― タレントを使った英語教材


 1980年前後の英語教材は、いわゆるタレントを使ったものが多かった。そういうタレントの有名性、認知度が広告効果として発揮されるわけである。
 これは1990年ころまでは残っていたようだが、次第にすたれていった。一部では、有名なプロゴルファーを使った教材も残ってはいるが。

 私が担当した教材でお願いしたのは、次のような方々である。
・シリア・ポール
・キャロライン・洋子
・ケイ・アンナ
・EHエリック


 シリア・ポールさんは、私が大学時代、FM放送で「ダイアトーン・ポップスベストテン」という番組の」DJをやっていた人である。土曜日の午後2時からの1時間番組。当時流行していたポップスを、いろいろなバックグラウンドを交えながら、軽妙なトークで私たちを魅了していた。

 新聞配達の学生の身では部屋にテレビを持つなんてあり得なかったし、販売店ではテレビを見ることができたが、ほとんど洋画を見るために販売店に行くくらいだったので、シリア・ポールさんは何らかの番組に出ていたのかも知れないが、彼女の顔は知らないままだった。

 それでも、彼女は私のアイドルで、この土曜日の番組を楽しみにしていたのである。

 そして、先日も述べた英語教材の編集・制作会社に就職して、ある教材のナレーションをシリア・ポールさんにお願いすることに決まったときは夢のようだった。
 その教材の執筆や編集も担当していたので、彼女のナレーション原稿も私が書くことになった。

 先日書いた「ラジオ講座」の先生のときのように、スタジオでシリア・ポールさんにキューサインを送ったときは感激したものだ。

 そして、前職の会社を辞めて独立してから教材の制作に参加していただいたのは、小林克也さんや郷ひろみさん。

 小林克也さんの『小林克也のアメリ缶』については、こちらをご覧あれ。
posted by 赤井田拓弥 at 14:41| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月15日

9月卒業

 私は1978年9月に大学を卒業した。「えっ! 3月じゃないの?」と思われるかもしれないが、当時の制度(今の制度は分からない)では、9月卒業が可能だった。

 同じ年に入学して留年もしなかった同級生たちは、1976年3月に卒業していた。私は1976年4月から1978年3月まで2年間休学した。
 私が出た大学は当時、休学中は授業料を払う必要はなかった。そして、卒論を除くほかの科目の単位はすべて取得していたので、卒論を提出して合格すれば半年で卒業できることになっていた。

 休学する前にほぼ書き上げていたので、少し修正すればよいだけだったが、修正を始めてみると、いろいろとやることが出てきて、全面書き直し。
 卒論は、日本語と英語の両方を提出することになっていた。2年間のアメリカ留学を経てみると、学生時代に書いた英語がどれほど稚拙であったかを、まざまざと思い知らされたのだった。

 8月の終わり頃に卒論を提出し、担当教授から呼び出しがあり、「合格だ」と伝えられたのが、確か秋分の日前後だったように思う。それですぐに上京することにし、学生課に行って「卒業証書はいずれもらいに来るので保管しておいてほしい」と伝え、東京にやってきた。

 1978年当時は、まだ秋に就職試験を行っていた。それで、ある通信社と大手の新聞社が同日試験だったので新聞社のほうを受験したが、不合格
 それで、しばらくアルバイトでもしようとアルバイトニュースで探したのが、英語教材を中心に執筆・編集・製作をやっていた、前職の編集プロダクションである。

 社長に「正社員になりなさい」と言われたこともあり、3か月後には正社員になった。

 この会社に就職して最初に「感無量だ」と思ったのは、受験勉強中に聴いて勉強していた「大学受験ラジオ講座」の先生だった人と仕事をしたことだ。

 当時の教材は、ラジオ講座のようにテキストを執筆した先生が説明し、それをカセットに収録して売るスタイルのものも多かった。

 「大学受験ラジオ講座」で私が熱心に聞いていた先生をスタジオにお呼びしての収録である。ディレクターとしてその先生にキューサインを送ることになったとき、東京に出てきて英語の教材の制作にかかわる仕事に就いてよかったなと思ったものだった。

 大学受験勉強をしているときのラジオ講座の先生なんて、まさに雲の上の方だと思っていたわけだから。
posted by 赤井田拓弥 at 16:02| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月13日

3ナンバーには近づくな!


 駅からの帰り道に知り合いのバイク屋さんがある。ある晩、この店先に、スズキ自動車の「スイフト」という車が停まっていた。小さいボデーなのに「3ナンバー」だったことから、立ち寄って、店長と客(そのスイフトの持ち主)と私の3人で、話が盛り上がった。

 私の感覚では、「3ナンバーは車体の大きい高級車」なのだが、今では、あまりそういった規定はないらしい。ある一定の数字を超えると「3ナンバー」になるらしい。排気量も2リットルを超える必要は、必ずしもないらしい。
 
 さて、私が大学時代を過ごした北九州の小倉は、言わずと知れたヤクザの街である。

 大学3年に上がる頃、私は車を買った。育英奨学生で新聞配達をしており、新聞店の主任の息子さんが新車に乗り換えるというので、お下がり(もちろん中古)を買ったのだ。確か12万円だったかな。

 もちろん、手取りが月に3万円ちょっとの頃なので、現金の蓄えはない。それで、店から前借りして買い、確か1万円ずつ天引きしてもらった。
 
 そして、車を買ったときにいろいろな人に言われたのが、「3ナンバーには近づくな!」だった。

 当時の小倉で3ナンバーに乗っているのはヤクザに決まっていると。それで、不用意に車間距離を詰めて急ブレーキをかけられ追突したりすると、そりゃ面倒なことになると。

 「車間距離をツメると指をツメることになるよ」と。
posted by 赤井田拓弥 at 09:48| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月12日

『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』

 リリー・フランキーさんの『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』は、彼の自伝小説で、ほぼ事実に沿っていると言われている。たぶん、そうだと思う。

 というのは、私が大学時代に育英奨学生として新聞配達していたときの読者の一軒に、本に書かれている描写とまったく同じ家があったからである。

 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』の、文庫本だと21ページに、次のくだりがある。

   小倉の外れの田舎町。そこにオトンのお姉さんが嫁いだ
  家があった。ボクらはその親戚の家でお世話になり、
  オトンとの別居生活を始めることになった。
      (中略)
   立派な母屋があり、そこに義姉夫婦、二人の子供、
  義兄の両親が住んでいた。そして、母屋の並びには
  かなりの人数を賄える学生寮を二棟営むほどの裕福
  な家庭だった。


 「オトンのお姉さん」とあるので、主人公(リリー・フランキーさん自身のはず)の伯母さんにあたる人の家である。確かに、大きな屋敷と学生寮も、私が覚えている情景と一致する。

 「小倉の外れの田舎町」というのは、今の小倉南区蒲生というところ。そして、次の描写のところも、私の配達区域だった。

   小高い丘に立つ白い巨大な観音様が目印の幼稚園。

 「小高い丘」というのは鷲峯山で、幼稚園は「わしみね幼稚園」で、これは今でもある。

 夕刊の配達で販売店を4時過ぎに出て、このあたりに到着するのが、だいたい6時ちょっと前あたり。学生寮の夕食の準備が整う頃である。

 夕食がいなり寿司の日などは、その「オトンのお姉さん(リリーさんの伯母さん)」が「読売さん、おいなりさん食べていかれんね?」と言われて、食べて帰ることもあった。

 リリー・フランキーさんは1963年生まれなので、この描写の4歳のころというと1967年。私が彼の伯母さんの家に新聞を配達していたのは1973年〜76年なので、オーバーラップしていることはない。

 そして、この学生寮には、私の大学の同級生が2人住んでいた。
posted by 赤井田拓弥 at 12:35| Comment(0) | 鳥かごの詩

2018年07月11日

同じ釜の飯

 大学時代、私は新聞社の育英奨学生として新聞配達をしながら通学していた。私の勤めた販売店には、4年生大学の学生や、当時北九州市小倉に存在した読売理工専門学校の学生が勤務していた。いつも、だいたい数人が勤めていた。

 部屋が提供され、朝夕の食事が付いていた。ただ、「食事代」は給料から差し引かれていた。同じ店に勤めた奨学生たちは、いわゆる「同じ釜の飯」を食っていたわけだ。

 先日、この「同じ釜の飯を食った」仲間(同い年)が、私のオフィスを訪ねてくれた。

 2人訪ねてきた。もう一人は他店で勤務していたので、同じ釜の飯を常時食っていたわけではないが。4年間同じ釜の飯を食った男は大分に住んでいて、北海道に嫁いだ娘さんが出産し、その孫の顔を見に行った帰りだという。彼に会ったのは、新聞店の店長の葬儀以来で、25年振りくらいになる。

 もう一人は千葉の君津に住んでおり近いのだが、会ったのは育英奨学生を修了して以来42年ぶりだった。
 昔話に花を咲かせ、その中でも盛り上がった新聞店話題のひとつ。

 私の1年のときだった。
 店の先輩が、夕刊配達のあとに受けた電話の対応がよくなかったのか、相手を怒らせてしまった。その相手は「これから行くけぇ、そこで待っちょれ!」と啖呵を切ったらしい。先輩はビビってしまった。
 なにせヤクザの街、小倉だ。

 主任の一人が帰ってきて、みんなの様子がちょっとおかしいので、「なんかあったんか?」と訊く。「こうこういうことがあって、誰かが攻めてくるそうです」と答えると、「よし、分かった」と、その主任はすぐに家に帰った。彼の家は店から歩いて30秒もしないところだ。

 クレームを付けた客がやってくる直前に、その主任が戻ってきた。さらしの腹巻きをし、前の開いた七分袖のシャツを着て、短いズボンと雪駄という出で立ちで戻ってきた。太って腹が出ており、そして坊主頭なので、その姿たるや、まさにヤクザそのもの。

 クレームを付けた客がやって来て、その主任が店先に出迎えた。

  「なんか、うちの若いもんが粗相をしたそうで」

 その客は、「いえ、たいしたことではありません」と、そそくさと帰っていった。
posted by 赤井田拓弥 at 15:06| Comment(0) | 鳥かごの詩