2013年12月26日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 22


25万坪の家にゴルフ場


 前回の記事で、歌手のフランク・シナトラ邸に十数台の駐車スペースがあったと書いた。

 これに驚いてはいけない。

 去る2013年6月7日と8日、アメリカのオバマ大統領と中国の習近平国家主席が対談を行った。場所は、カリフォルニア州ランチョ・ミラージュという町にある Sunnylands という visitor center だという。

 この visitor center を地図で見ると、思い出すことがある。私が砂漠に住んでいた頃に有名だった、ある大邸宅の中が、この Sunnylands なのである。前回の記事のフランク・シナトラ邸の近くだ。

  しかし、ここは実は私邸である。

 この邸宅には、敷地の中に9ホールのゴルフコースがあり、庭師のための駐車場が200台分、そして、その庭師たちが車で来て給油するためのガソリンスタンドまでが設けてあるというのだった。真実のほどは定かではない。25万坪だそうだ。

 この Sunnylands は、Bob Hope Dr. Frank Sinatra Dr. という道路の交差点にあった。私が通っていた大学からアルバイトをしていた Palm Springs の花屋に行くときにこの Bob Hope Dr.を走るわけだが、その家を通り過ぎるのにずいぶん時間がかかったのを覚えている。

 この邸宅の主はもう亡くなったが、Walter Annenberg という人で、あの「Bible の次に売れた」 と言われる 『テレビガイド』 を創刊した人である。『テレビガイド』は、最盛期には毎週2千万部を売っていた。私が住んでいた頃は、スーパーのレジの横に置いてあり、ほぼすべての人が手に取って買っていたのではないだろうか。その他にも、月刊900万部の『セブンティーン』など、数多くの出版物を出していた。
 この Walter Annenberg という人は、ニクソン大統領時代、駐英アメリカ大使も務めた。


 あるとき大切な客があってゴルフをすることになったが、あるゴルフ場で2時間待たされた。彼は、それに怒って自分の家にゴルフ場を作ってしまったというのである。

 この Sunnylands を訪れていないアメリカ大統領はいないと言われる。また、イギリスのエリザベス女王も、日本の総理も何人か訪れている。


posted by 赤井田拓弥 at 16:23| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月18日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 21


フランク・シナトラ邸



 砂漠のある Coachella Valley の町は避寒地である。11月の Thanksgiving が過ぎた頃から、アメリカの北部の州やカナダから、冬のあいだをこの町で過ごそうとする人たちが押しかける。
 逆に3月から4月の Easter を過ぎると、その人たちが帰ってしまうので、町は閑散としてしまう。

 ただ、今では通年で過ごす人も増え、私が住んでいた頃に比べると、人口もずいぶん増えたようだ。

 雨が降ることは滅多にないのだが、珍しいことに、この Coachella Valley の多くの地域が海面下なのである。下の写真は私が住んでいた Indio という市境を示す看板だが、右下に 「ELEV ―13」 とある。つまり、海面下13フィートということである。

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 海面下にあるためか、地下水が豊富である。農地の灌漑だけでなく、ゴルフ場、民家の庭の散水などが、地下水で賄われている。
 したがって、砂漠の町でありながら、緑が多いところなのである。

 ゴルフ場が多いので、ゴルフやテニスをして週末や休日を過ごすセレブの別荘があちらこちらにある。

 若い人たちには馴染みのない名前だろうが、昔の有名どころでは、William Holden, Bob Hope, Frank Sinatra たちである。こうした大物になると、別荘ではなく住居として住んでいた。ロサンゼルスやハリウッドでの仕事には、Palm Springs の飛行場から自家用機で通えばいいのである。

 花の配達をしていたある日、フランク・シナトラ邸に遊びに来ていたサミー・デイヴィス Jr. 宛てに、誰かから生け花のプレゼントがあった。年配の人たちは、サミー・デイヴィス Jr. は、サントリーのウィスキーのコマーシャルで覚えておられることだろう。

 「誰が配達に行くか?」 と言われたとき、私は真っ先に手を挙げた。

 フランク・シナトラ邸に行くのは初めてだった。また、その後も行く機会はなかったが。
 門の前に車を停め、大きな門に近づくと、門にしつらえられたスピーカーから Who is it? と音声が流れる。もう、その当時から防犯カメラが取り付けてあったのだ。
 どこにマイクがあるか分からなかったが、私は門に向かって 「花の配達に来た」 と叫んだ。

 すると、ドアが自動 (たぶん) で内側に向かって開き、中から、腰に拳銃を下げた男が Come in. と言った。そして、Follow me. と言って、歩き始めた。

 門を入ってすぐ右に20数台が停められる駐車スペースがあり、私が見たとき、ロールスロイスが4台ほど、メルセデスベンツやアメリカのキャデラックサンダーバードなどの高級車が10数台並んでいた。

 その高級車の横を過ぎて建物に向かって歩きながら、そのガードマンに、「この花はサミー・デイヴィスさん宛てです。サミーさんのサインをもらいたいのですが」と言ったが、「あ、サミーは今ゴルフに行っていていないよ。サミーのカミさんならいるけど、彼女のサインでいいか?」と言われた。

 今でも後悔するのだが、なぜかその時は「いや、だったらいいです、どなたのサインでも」と言ってしまい、厨房にいた sheep、いや違った、執事のサインをもらって帰ってきた。

 今考えると、サミー・デイヴィス Jr. の奥さんのサインでも、持っていると十分に自慢できたと思うのだが。

posted by 赤井田拓弥 at 22:29| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月16日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 20


アルバイト諸々 ― 6
花の配達

 ドーナツ屋さんでのアルバイトは、始めて1年後くらいに店主が日本から奥さんをもらい、その奥さんが店を手伝うようになったため、辞めることになった。

 ほかに私がやった主なアルバイトは、花の配達である。

 私が住んでいた Indio という町から20マイル (30キロほど) 離れたところに、Palm Springs という町がある。Coachella Valley ではこの町がいちばん有名で、セレブも多く住んでいる。私より年配の人だったら、『パームスプリングの週末 Palm Springs Weekend)』という映画を覚えている方もおられるだろう。

 この町に、ご主人は日系2世で奥さんが1世、つまり日本から嫁いでいった人、というご家族があった。この家は Palm Springs のダウンタウンで花屋さんを営んでいた。

 アメリカでは、いろいろな occasion に花を贈る。その花の配達のアルバイトを頼まれた。このアルバイトは毎日とか毎週末とかではなく、こうした occasion があるときだけである。なので、定期的な収入にはならなかった。

 花の配達の時給も2ドル50セントだった。ただ、このアルバイトには特典があった。配達に行った先でチップがもらえるのである。このチップは店に報告する必要がなく、自分で手にすることができた。
 とは言っても、チップは1軒でもらうのがせいぜい25セント、多くても50セントなので、1日に10箇所配達しても、2ドル50セントくらいにしかならなかったが。
 同じ配達していた同僚が、ある家から100ドルのチップをもらってきて、店で大騒ぎになったことがあった。

 上で述べた「いろいろな occasion」 で主なものは、2月の St. Valentine’s Day、3月の St. Patrick’s Day、4月の Easter、5月の Mother’s Day、6月の Father’s Day、11月の Thanksgiving、そして12月の Christmas などである。これらのほかにも、ちょっとした催しで配達にかり出されることもあった。
 
 こうした祭日前の週末は、朝から花屋に行って、「どこどこの家に配達してくれ」 という指示待ちである。取り立てて配達がないときは、店の掃除をやったり、アレンジの手伝いをしたりしていた。

 店の station wagon を使って配達した。アメリカの住所表示は、非常に分かりやすいので、配達はたたいへんではなかった。道路の名前に番号が付いているだけである。そして、偶数番号は左側だけ、奇数番号は右側だけのようになっている。もちろん、地図は車に積んであるが、出る前にだいたい見ておけば、ほぼ迷うことなく、その家に届けることができた。
 また、雨が降るようなことはないので、車を降りてから玄関口まで雨に濡れるようなこともない。

 配達先の玄関口で花の配達に来たということを告げ、伝票にサインをもらい、チップをもらって帰る。

 今でも、日本の街中で花屋さんに入ったり前を通ったりすると、花いっぱいの香りで、アメリカで花の配達をしていたことをふっと思い出すことがある。

 花屋さんの香りは、アメリカも日本も同じである。

posted by 赤井田拓弥 at 09:55| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月13日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 19


アルバイト諸々 ― 5
ドーナツ店でのアルバイト ― 2

 アメリカで、マクドナルドなどのファーストフード店を訪れて食事を注文すると、For here or to go? と聞かれる。

 これは、ひとつには、料理をトレーで出すか袋に入れて渡すかの判断材料になっているわけだが、もう1つ重要なことがあり、for here to go では税率が違うのである。

 for here と言って店内で食べると、いわゆる 「贅沢品」 となるので税率が高いが、to go と言って持って帰ると 「惣菜grocery)」 扱いなので、低い税率となる。

 したがって、私もレジを担当させられると、客に For here or to go? と聞き、レジ機で返答に応じた税率のボタンを押していた。

 客の中には、to go と言っておきながら、店内で袋を開けて食べ始める人がいる。税金を少なく払うというチョンボである。このようなときは、その客のところに行って、税金の不足分をもらわなければならないのである。このときは辛かった。

 税金の不足分を請求すると、素直に払う客もいたが、「じゃ、持って帰る」 と席を立って出て行く客が多かった。

 ドーナツといっしょにコーヒーを注文する人も多い。Do you need sugar for your coffee? と言って、砂糖が必要かどうかもたずねる。
 なかには、砂糖がたっぷりとグレーズされたドーナツ5つも6つも買っておいて、砂糖が必要かと聞くと、

 No, I’m dieting.

 と答える人もいた。


 このバイトで覚えた印象的なことがある。

 小さいパックの牛乳も売っていた。ある女性が牛乳パックを注文したので、冷蔵庫から1個取り出して渡したところ、Give me another one. と言った。

 私はそれまで、another では 「別の、別の種類の」 という意味しか理解していなかった。それで、We have only this kind. と言ったか、This is the only kind we have. のように言ったのか覚えていないが、とにかく 「牛乳はこの種類しかありません」 のように答えた。

 するとその女性は、Give me one more. と言い直してくれた。こういう人は頭がよい。

 去年、アメリカに行ったとき、電話に出た女性の can の発音が can’t にも聞こえたので、問い返したところ、その女性は You are able to. と言い換えてくれた。頭のよい人は、こういう言い換えができる。

 閑話休題 (それはさておき)。

 その朝のバイトが終わり、学校に行って、「今朝こんなことがあった」 と先生に話したところ、another に 「もう1つの」 という意味があると教えてくれた。

 こういう体験を通じて覚えた英語は忘れない。

 店主がときどき、day old のドーナツを箱に詰めてくれ、「赤井田くん、これを学校に持っていって、ほかの学生さんたちに食べさせてやって」 と渡してくれることがあった。

 学校に着いて箱を開けると、一瞬のうちになくなった。

posted by 赤井田拓弥 at 10:11| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月12日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 18


アルバイト諸々 ― 4

ドーナツ店でのアルバイト

 私が住んでいた Indio という町で、アパートからそれほど離れていないところに、若い日本人が経営するドーナツ屋さんがあった。Happy Donuts という名前だった。オープンしたばかりだったと思う。

 この店主は30歳くらいの人だったが、日本ではかなり有名な大学の大学院まで出た人で、光工学を研究し、ある超有名企業の研究室に勤めていたとか。40年前の大学院卒はすごい。
 お姉さんがスイス人と結婚してこの砂漠の別の町に住んでおり、同じくドーナツ屋さんを経営していた。
 そこは Swiss Donuts といった。


 彼は休暇を利用してだったか会社を辞めてだったか、私の記憶が定かではないが、お姉さんを訪ねてアメリカにやってきた。そして、スイス人の義兄のもとでドーナツ作りの修行をし、自分の店を開店させたのだった。

 その店でバイトをしないかという話になり、ありがたく請けた。時給は2ドル50セント。当時のレートが300円だったから、750円相当である。東京でやったシロアリ駆除のバイトが550円だったから、高い時給だと喜んだ。ただ、2ドル50セントというのは、当時の最低保証時給だったのである。

 そのアルバイトは朝5時頃から8時まで。そのあと、学校に行く。なので、朝4時半に起きることになった。まただ。大学時代に新聞配達をしていたときと同じである。大学のときは4時起きだったが。

 アルバイトをしていることが移民局の人たちにバレないように、裏方の仕事を任された。つまり、ドーナツ作りである。素人の私にできるのかと思ったが、当時からかなり機械化されていたので、そんなにたいへんではなかった。揚げ上がったドーナツに砂糖やチョコレートをグレーズしたり、カスタードクリームを機械で注入したりである。

 店は朝6時頃に開ける。コーヒーを飲みながらドーナツを breakfast にする人は多い。私もこれは好きになり、今でも、ときどき、朝コーヒーを飲みながらドーナツを食べる。

 移民局に見つかってはいけないので、私は店頭に出てはいけないことになっていたが、しばらくすると、店主がドーナツ作りに忙しいときなど 「レジもやって」 と言われ、恐る恐るレジをやったりもした。

 おっかなびっくりだったが、レジでの客との応対はけっこう英会話のトレーニングになった。

posted by 赤井田拓弥 at 10:21| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月11日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 17


アルバイト諸々 ― 3
Which is more important, your friend or my yard?

 日本人 (日系人) のナースリーさんからは、いくつかの庭仕事を紹介してもらった。

 ある家の庭仕事を始めたのは11月に入った頃だったと思う。そして、私の庭仕事の技術にはあまり満足していなかっただろうが、続けさせてくれていた。週に1度、落ち葉を拾ったり、除草したり、芝生を短く刈ったり、伸びすぎた木の枝を落としたり。

 サンフランシスコに大学 (北九大) の同級生 (正確には組が違うが同じ学科) が住んでおり、1976年の年末と翌年の正月をサンフランシスコで過ごそうと、彼のアパート (シェアハウスのようなところ) に行った。

 これはアルバイトについての記事なので、サンフランシスコへの旅行のことは詳しく書いても仕方がないが、1週間ほど過ごし、砂漠の町に帰ってきたのが、1月4日頃だったと思う。

 次の週あたりにバイト先の庭仕事に行くと、そこのご主人が 「先週は来なかったね。どうした?」 と言ってきた。
 それで、「サンフランシスコに友人がいて、彼に会いに行ってきた」と答えると、上のタイトルの英語で問いかけられたのである。

 Which is more important, your friend or my yard?

 私は、次のように答えた。

 Of course, my friend is more important.


 その場でクビになった。


 その後、いくつかの庭仕事をしたが、なぜか、いつも早期にくびになるのであった。

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posted by 赤井田拓弥 at 09:43| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月10日

「やる」 という言葉


 前の記事で書いた 『忍ぶ川』 という小説 (映画でも) に、次のようなくだりがある。

 志乃はふいに口をつぐんで、足もとを見ながらあるいた。
 「本村さんは、どうしたの?」
 「あたしを、ほしがりだしたんです。」
 私は、ぼおっと頬がほてり、胸がはげしく動悸をうった。
 「それで? やったのか。」
 「やるもんですか。」 志乃はこともなげにわらった。



 あるブログで、この「やったのか」という表現を、現代風の言い方でいわゆる 「する」 という意味に取り、「直截的な物言いで、下品だ」 と解説してあった。

 しかし、この 『忍ぶ川』 での 「やる」 は、今風の 「あげる」 の意味である。「それで、ほしがったからあげたのか?」という意味である。


 高島俊男氏の本に 「『宿題を見てやる』 と言えば身内の人間に対してであり、『宿題を見てあげる』 と言えば、他人の子供に対してである」 というようなことが書いてあった。

 今では、「犬にエサをあげる」 という言い方はごくふつうになっているが、数十年前までは、「やる」と「あげる」は、しっかり区別されていたのである。

 上の 『忍ぶ川』 では 「あげたのか」 と言うと、憎い恋敵に対する感じが出ない。

posted by 赤井田拓弥 at 17:45| Comment(0) | 雑文

2013年12月08日

『忍ぶ川』


 どういうきっかけだったかは忘れてしまったが、Youtube で、45年前のテレビドラマの映像を見た。『3人家族』 という番組である。

 主演の栗原小巻さんの美しさに惚れてしまった。

 そして、彼女が主演した映画 『忍ぶ川』 のことを調べた。原作は三浦哲郎で、この小説は何年か前に読み、そのときは、ちょっと暗い話だなという印象しかなかった。

 しかし、小説や映画の背景などをいろいろと知っていくと、どんどん引き込まれていった。

 この小説や映画の背景については、皆さんにご自分で調べていただくとして、私は昨日、映画のロケ地の一部を散歩した。

 映画のシーンを、よくないことだとは思うが、あるサイトから借りてきたこのアドレスをご覧あれ。

 栗原小巻さんが 「ここが洲崎橋」 と言っている場面がこれ。

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 そして、そのロケ地は、現在こんなふうになっていた。

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 この 『忍ぶ川』 は三浦哲郎氏の実体験がモデルになっており、主人公の志乃という女性が働いていたのが、駒込にあった「思い川」という料理屋さん。小説や映画では、「忍ぶ川」 となっている。

 映画のシーンはこれ。

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 そして、その 「思い川」 は、現在 「思い川茶房」 となっていた。

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 「思い川茶房」 の近くにある六義園では、紅葉がさかりだった。

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posted by 赤井田拓弥 at 21:43| Comment(3) | 雑文

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 16


アルバイト諸々 ― 2
いちばん割のよかったアルバイト


 私がアメリカで住み始めた砂漠の地には裕福な家が多く、広い庭一面に芝生が植わっている家がたくさんある。

 私は芝生の種類には詳しくないが、こうした家庭の庭の芝生は、夏のあいだは元気よく青々としているが、秋になると枯れてくる。ただ、根は生きており、春になるとまた芽を吹いて緑色になる。
 つまり、秋から春まで枯れた色の芝生を庭に見ることになる。

 秋から春まで緑色の芝生を見るために、庭にあることを施さなければならない。

 夏の芝生を短く刈り、地面すれすれか土を少し削るくらいに刈り込み、冬のあいだだけの芝生の種を蒔く。そうすれば、冬のあいだも青々とした芝生が眺められるというわけである。

 この時期になると(秋が深まると)、こうした作業の需要が高まり、ガーデナー (庭師) の仕事が増える。

 前の記事で書いたナースリーさんやガーデナーをやっている先輩の紹介で、ある歯科医の家の芝生を、上で述べたような状態にするアルバイトが回ってきた。

 その作業は次のようになる。

 まず、芝刈り機で、庭の芝生を地面ぎりぎりに刈る。そして、そこに冬用の芝生の種を蒔き、肥料と土をかぶせる。

 私と前の記事で書いた古賀くんと2人で、このアルバイトを請けた。確か、150ドル(当時のレートで4万5千円)だった。芝刈り機は、先輩に借りた。そして、種と肥料、土を、たぶん30ドルくらいで買ったので、2人の手取りは約120ドルになったわけである。

 作業には約2時間かかった。もらった150ドルから費用の30ドルを引いた120ドルを古賀くんと2人で分けたわけで、1人の手取りが60ドルになった。

 当時のレートは1ドルが300円だったから、60ドルは1万8千円になる。2時間で1万8千円だから、時給は9千円だ。アメリカに行く前にやったシロアリ駆除のバイトの時給が550円だったから、非常に率のよいバイトだったのである。

 先輩や日系人たちに、アルバイトで小切手をもらってはいけないと言われていたが、このバイト主の歯科医は私たちに150ドルの小切手をくれた。

 それで、もらったその足で銀行に駆け込んで、現金にしてもらった。小切手を持ち歩いていて、もし移民局のパトロールカーに検問を受けたときに小切手が見つかったりすると大変なことになるのだ。

 アメリカにいたあいだに、こんな率のよいバイトは、これっきりだった。

posted by 赤井田拓弥 at 21:00| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月06日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 15


アルバイト諸々 ― 1
初めてのアルバイト


 今でもそうだが、留学生のアルバイトは、大学内や特殊な例を除いて、基本的に禁止されている。語学留学の場合、まずアルバイトはできない。

 しかし、多くの学生が何らかのアルバイトをしていた。

 私も、そもそも持ってきた金が多くなかったし、車も買ってしまったこともあって、手元不如意になり始めていた。
 前回の記事で No Fried Cabbage のことを教えてくれた先輩は、日本人が経営する植木販売店の離れのようなところに住んでいてガーデナーをやっていた。私もときどきそこを訪れ、その経営者とも親しくなった。

 この植木販売店の経営者のことを、私たちは 「ナースリーさん」 と呼んでいた。nursery には「保育園」という意味のほかに「種苗店」という意味もある。

 アメリカで初めてのアルバイトは、庭師のようなものだった。上記の先輩が長いこと庭師のアルバイトをやっており、彼についていったのである。人家の庭の木の枝を切ったりする仕事だった。
 行った家で、庭にいた小学校1,2年生の女の子に Did you eat lunch? と聞いて怪訝な顔をされた。私の発音がまずくて理解してくれなかったのか、「なんでこの人はご飯を食べたか」なんて意味のないことを聞くのかと思ったのか分からない。

 このバイトには、福岡から来ていた私と同い年の古賀くんという友人もいっしょに行った。ナースリーさんのピックアップトラックを借りて行き、落とした木の枝を積んで帰ってきた。

 「ご苦労さん」ということでビールをごちそうになっていると、ナースリーさんが「あの木の枝を dump yard に捨ててきてくれ」と言う。
 「えっ? もう飲んじゃいましたけど」と言うと、「別にちょっと飲んだくらいでは運転してもかまわんよ」と言うので、dump yard の場所を聞いて、私がピックアップを運転して古賀くんと出た。

 州道を走っていると、バックミラーにパトカーの警告灯が点滅しているのが見えた。

 古賀くんと「ヤバイよ。飲んでるよ。しかも、運転席にビール缶もあるし」と、ややパニック気味ながら、ピックアップを路肩に寄せて停まった。

 「運転席から下りてはいけない」と聞いていたので、運転席で神妙に待っていると、

 「荷台から木の葉やゴミが吹き飛んでいるから、飛ばないようにもっと踏み固めろ!

という指示だけで、免許証も見せなくてよかった。ビールを飲んでいたので顔も赤かっただろうけど、それに対しても何も言われなかった。

 この日のアルバイト料をいくらもらったのかは、なぜか覚えていない。

posted by 赤井田拓弥 at 23:07| Comment(2) | カリフォルニアの青い空

2013年12月04日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 14


ハリケーンと洪水の後かたづけ


 アメリカの砂漠地帯に住み始めて1か月、まだ最初のアパートでルームシェアをしていた頃だったが、カリフォルニア州南部をハリケーンが襲った。
 ハリケーンはアメリカの東部や南部に襲来することはよくあるが、西部のカリフォルニア州を襲うことは稀である。

 1年に1回か2回くらいしか雨が降らない地である。私が住んだ22か月のうちでも、雨が降ったのを覚えているのは、このハリケーンと次の年の1月、その1年ほどあとの、3回だけである。

 1976年9月に襲ったハリケーンは「キャスリーン (Kathleen)」と名付けられている。

 夕方頃から降り始めた雨が、夜半には豪雨になった。砂漠に来て初めての雨だったし、ときどき稲光もして、私はずっと窓から外を眺めていたものだった。ただ、台風のような風はなかったように記憶している。

 夜が明けると、いつものような太陽と高い気温が戻っていた。ハリケーンが襲ったのは金曜日の夜。そして、明けた土曜日には、いろいろな情報が入ってきた。
 ある日本人留学生のアパートに集まって情報交換すると、近辺の町で大きな被害を受けたのは、大学がある Palm Desert くらいで、Coachella Valley のほかの町にはそんなに被害はなかったようだ。

 Palm Desert の町は砂漠なので砂地である。近くの山には木が生えていない。その山から洪水で流れ出した土砂で多くの家が砂まみれになったようだ。

 その一軒に、あの我々留学生がたいへんお世話になっている ESL の責任者 Dr. Kroonen の邸宅があった。

 留学生みんなで片付けの手伝いに行こうということになり、ガーデナーをやっている先輩が、いろいろな道具を集めてきてくれた。それを持って Dr. Kroonen の家に行くと、やはりすごい被害だった。

 アメリカの住宅には、基本的に床下がない。したがって、水や土砂が流れてくると、即「床上浸水」になる。家の中の土砂はそんなに多くはなかったが、プールが完全に土砂に埋まっていた。

 10数人の若者(当時はみんな20代前半)が頑張ったので、土曜日の午後と日曜日の午前で、Dr. Kroonen の広い邸宅も、片付いた。

 このときに覚えた単語 blister (まめ)は、今でも忘れない。


 我々の作業を見ていた道向かいの老夫婦が、「お金を払うので、我が家も片づけてほしい」 と言ってきた。
 Dr. Kroonen のご近所である。断るわけにはいかない。

 「我々は留学生で、金をいただくわけにはいかないので、無料奉仕しま」 と言って、その家の片づけもやった。その家にはプールがなかったので、作業は非常に簡単だった。わずか1時間ほどで終わったように記憶している。

 
posted by 赤井田拓弥 at 11:20| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年12月03日

川端康成の世界 ― 失われた美しさ、その2


 前回の記事で、会社をひけてから日没まで時間がありすぎて、我々の感覚から乖離しているようなことを書きました。

 読み進めるうちに、どこだったか今は探せませんが、夏時間に触れているところがありました。そして、調べてみると、昭和23年5月から27年4月まで、日本でも夏時間が実施されていました。

 つまり、川端康成が 『千羽鶴』 を書いていたときには夏時間があったわけですね。ですから、夜遅くまで明るかったとあっても当然だったわけです。

 当時は、5時には退社していたのでしょうか。通勤時間が1時間あったとしても、家に着くのが6時。夏時間で暗くなるのが8時半ころだったとすれば、2時間半ですから、夕食を食べて庭に出ても、まだ辺りには明るさが残っていたのでしょう。

 『千羽鶴』 の続編として書かれた 『波千鳥』 に出てくる、ゾクッとするような美しい表現。

 「ゆき子もはいって温まったらどう。」
  ゆき子は目で美しくはにかんだ。
 「御飯の支度をしますから。」
  と、身軽に出て行った。


 「目で美しくはにかんだ」って、ふつうの人にはかけませんねぇ。
 
posted by 赤井田拓弥 at 23:16| Comment(0) | 雑文

2013年12月01日

失われた美しさ

 このところ、なぜか立原正秋の小説をまた読み返してしまいました。この小説家は、鎌倉と日本の文化をこよなく愛した人です。

 その流れで、川端康成も引っ張り出して読みました。川端康成は 『雪国』 で有名ですが、私は 『古都』 がいちばん好きです。

 若い頃に川端康成の小説を読んでても気づかなかったことですが、改めて読むと、いろいろなことに気づき、また、例えば次のようなフレーズにも、すごく感動してしまうのです。

 「どうぞお上りになってという風に、文子は膝を斜めにずらせた。

 『千羽鶴』の中の表現です。これだけで、文子という女性が玄関で座って客の主人公の菊治を応対しているのが分かります。こういった表現で、その女性の体型までわかるような気がします。
 そして今、玄関で座って客に応対する女性がどれほどいることだろう、と思ってしまいます。

 そして、この頃 (第二世界大戦直後) のことを書いた小説で不思議に思うのが、勤め人が家に帰り着いても、まだ夕陽が残っていたりすることです。

 仕事がひけて家に帰る前に飲み屋にちょっと立ち寄り、有楽町から東京駅まで電車で帰り、東京駅から横須賀線に乗って帰るのですが、家に帰り着いて客と対応し、その人を庭に連れ出した頃になっても、まだ日が落ちていないのです。

 ま、それはそうとして、川端康成の文はきれいです。

 


 
posted by 赤井田拓弥 at 22:09| Comment(2) | 雑文