2013年11月29日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 13


ルームメートとの生活 ― 2

夜警に駆り出される

 ビルのガールフレンドの引っ越しの手伝いでアナハイムに行ってからさらに1か月くらい経った頃、またやっかいなことを頼まれた。

 ビルの友人が家を買って引っ越したが、どうも不審者がやってきて、2度ほど break-in されたらしい。その友人がビルにちょっと来て夜警(見張り)をほしいと言ってきた。

 夜警に行くことになった。私も駆り出された。

 家を買った友人はライフル銃を買った。彼は、そのライフルを持って自分の家にいて、中から見張ることになり、ビルともう1人の友人と私がビルの車に乗って、遠くからその家を見張ることになった。

 車に乗ってその友人の家に向かう車中で、「もしその不審者が撃ってきたら車のシートの下に隠れろ」 という話が出た。

 「冗談じゃない! そんな話は聞いてないよ!」 という気持ちだったが、「イヤだから帰る」 というのも弱虫のような感じで言えなかった。そもそも帰る手段もなかったし。

 ビルの友人が買った家は、砂漠の中にあるような感じで、まわりには数件の家しかなかった。ビルと私ともう1人の友人は、家を買った友人の家から100メートルほど離れたところに車を停め、見守った。

 砂漠とは言え、11月に入った夜は寒かった。

 午後10時頃から朝の3時頃まで車の中で見守ったが、その夜は何も起こらず、引き上げることになった。

 その後、不審者の話が出ることはなく、また行こうという話にはならなかったが、なんとも不思議な夜を過ごしたものでもあった。

 もし不審者が来て、銃撃戦になったらどうなっていただろうと、今でも考えると身震いがする。それに今考えると、不審者が現れ、車で見張っている我々のほうが、家の中でライフル銃を構えている友人より先に不審者を見つけたらどうやって知らせるつもりだったのだろう?
 今みたいに携帯電話はないし。ウォーキートーキー (walkie-talkie =トランシーバー) を持っていたような記憶もあるが、定かではない。

 


posted by 赤井田拓弥 at 09:37| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月28日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 12


ルームメートとの生活 ― 1

アナハイムの町へ小旅行


 William Major Buck とルームシェアを始めるとき、32歳で独身ということから、彼がゲイでパートナーを探しているのではないか、などと良からぬ疑いをかけたりしてしまったが、それが杞憂であったことは、住み始めてすぐに判明した。

 いっしょに住み始めて2週間ほどしたころ、「今度の週末は時間があるか?」と聞かれた。「ある」と答えると、アナハイムに住む彼のガールフレンドがアパートを引っ越すからその手伝いに行くが、君もいっしょに行ってくれないか、という依頼だった。

 アナハイムはロサンゼルスの近くで、ディズニーランドがある町である。Palm Desert での生活が始まってすぐの頃、あとから大挙してやってきた日本人留学生たちと仲良くなり、彼らの数人と日帰りでディズーランドへは遊びに行ったことがあった。

 William Major Buck
のことは、「ビル」と呼んでいたので、これからビルと書く。William Bill と略されて呼ばれる。


 アナハイムにはビルの車で行った。もちろん、私は助手席で。

 ビルのガールフレンドのアパートに着いたのは、確か金曜日の夕方(学校があった)で、その日は大した引っ越し作業はなく、3人で夕食を作って食った。

 彼女のアパートは、いわゆる1LDKで、部屋は1つだけで、ビルと彼女がその部屋で寝て、私はリビングにマットレスを敷き、そこで寝た。その後、隣の部屋で始まった出来事には悩まされてしまったが。

 翌日、土曜日、3人で新しいアパートに引っ越した。これもたやすく終わってしまった。

 そして、その翌日の日曜日には、私がすでにディズニーランドには行ったことがあるため、アナハイムの隣のブエナパークという町にある「ナッツベリーファーム」というアミューズメントパークで遊んで、夜になってから砂漠の Indio に帰ってきたのであった。


posted by 赤井田拓弥 at 10:15| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月27日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 11


引っ越し

 車も買った。そして、アパートをシェアしていた韓国生まれの日本人とあまり折り合いがよくなかったこともあり、引っ越すことにした。

 ホームステイも考えたが、生活時間に制限がありそうだった (贅沢な考えだが) ので、アパートにしようと思った。とは言っても、1人だけで1つのアパートを借りるのは高くつくので、アパートのルームシェアが望みだった。また、日本人とのシェアだと日本語ばかりを話すことになってしまうだろうとも思ったので、アメリカ人か留学生とのシェアを望んだ。

 こういった希望を書いた紙を、大学の掲示板 (bulletin board) に貼った。すると1週間くらいで電話がかかってきた。
 話すと、私のアパートまで会いに来るという。

 その日だったか次の日だったか忘れたが、その人物が、私が住んでいたアパートにやってきた。32歳の男性で、勤めているという。しばらく話をして、彼とルームシェアすることに決めた。

 それまでは、Studio-typeのアパート、いわゆるワンルームをシェアしていたので、1つの部屋に2人が寝ていたわけだが、その人物が借りているアパートは2部屋あり、そのうちの1部屋が空いているので、シェアしたいということだった。

 彼は彼で、私にアパート代をちゃんと払っていける能力があるのだろうかと疑心暗鬼だっただろう。そんなことを引き出す質問が多かった。
 私は私で、この人はこの歳まで独身なのは、もしかしたらゲイで、その相手を探しているのではないかなどと思ったりもした。

 部屋代、光熱費などをすべて折半すること、食費は自分でめいめい払うことなどを取り決め、私はそのアパートに引っ越すことになった。

 こうして私が2年後、1978年6月初めまで住むことになったアパートは、この地に初めてやってきた日にグレイハウンドのバスを下りた Indio という町にあった。大学からは10マイル離れていた。

 ルームシェアした人は、William Major Buck という名前だった。William Bill と略されるので、私は 日常 Bill と呼んでいた。

 親切な人で、いろいろと助けてもらったし、交流する友人も増えた。そして、金曜日などは、よく夜遅くまで話し込んだりしたおかげで、私の英会話力もずいぶん伸びることになったと思う。


No Fried Cabbage のこと


 話は変わるが、私はキャベツを炒めてマヨネーズをつけて食うのが大好きである。子どもの頃屋久島ではよく食べた。大学時代は新聞販売店で食事が出ていたのでしなかったが、アメリカに来る前に東京で3か月ほど住んだときは、ときどき、これを自分で作って食べていた。

 Indio のアパートに住み始めてすぐの頃、アメリカに2年以上住んでいる先輩が次のようなことを言った。

 「アパートによっては No Fried Cabbage って書いてあるところもあるよ。これはね、黒人がキャベツの炒め物が好きで、こういった掲示を出して、暗に黒人の居住を拒んでいるわけだ

 私が住んだアパートにはこんな掲示はなかったし、その後、いくつかのアパートに行ったりしたこともあるが、ついぞ見たことはなかった。

 しかし、私がキャベツを炒めて食うことは、結局、アメリカ滞在中にはなかった。

posted by 赤井田拓弥 at 10:10| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月26日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 10


ESL の授業と大学の授業

 話はかなり前後するが、ESL (English as a Second Language) の授業と大学本部での授業のことを書いてみよう。

 以前にも書いたように、ESL の授業料は無料だった。そして、しばらく授業を受けているうちに、1学期(semester)間6単位(unit)までであれば、大学の授業も受けられるということが分かった。

 コミュニティカレッジで、地元の人たちや海外からの移住者たちも授業を受けており、中には英語力を問われないものもあったが、私が受けたかった授業はジャーナリズムだったのでかなりの英語力が必要とされ、学生課に申し出たところ、英語のテストを受け、担当教授に判断してもらいなさいということだった。

 テストは、リーディングライティングだけだった。テストの係の先生と面接のような形で何分か話をしたのが、リスニングスピーキングのテストだったのだろう。

 テストのあとしばらくすると、ジャーナリズムの担当教授がやってきて、テストの係の先生に「どうですか」と聞いた。「時間はかかるけど、正確だから、授業を受けさせてもいいと思いますよ」という返事をもらい、「ジャーナリズム入門 (Introduction to Journalism)」という授業を履修できることになった。

 1977年1月から始まる学期のことである。アメリカに行ってから、5か月が過ぎていた。このテストの係の先生には感謝している。

 また、そんな英語力でジャーナリズムの授業を受けさせてくれた教授にもたいへん感謝している。この先生は、後年 Palm Desertという町の mayor にもなったし、ロサンゼルスと砂漠のあいだに鉄道を敷設しようという案が持ち上がったときに、その委員となり、視察で日本に来られたことがあり、東京のホテルで会い、しばらく歓談したことが懐かしい。

 この教授も、数年前に亡くなられた。

 この授業のことや、学内新聞の発行に参加させてもらうようになったことなどは、後日書いていく。

 2つ前の記事「日本人留学生」のところでも書いたが、この頃いた日本人留学生のほとんどが1978年6月〜8月に帰国した1つの理由には、この時期に、ESL の授業も大学の授業も有料になることが決定したからでもあった。

 1978年6月初め、カリフォルニア州で Proposition 13 という固定資産税に関する法律が可決された。Proposition 13 によって固定資産税の税率が下がったのである。つまり、州の税収が減ることになった。
 カリフォルニア州では、固定資産税の多くが公立学校の費用に使われており、税収の低下によって、無料の授業を続けることができなくなったのだ。

 記憶では、確か1ユニット(単位)あたり40ドル(当時で1万2千円)の授業料になるということだった。だいたい1学期で12単位ほど履修するので、15万円ほどになる。

 15万円は、当時の北九大で私が払った授業料の年額の5倍に相当する。 1学期だけで。

 ベトナム戦争の終結から3年、贖罪の意味もあってか、移民の人たちに対する厚遇を続けてきたのだが、そろそろもういいだろうということになったのかも知れない。

 こういうわけで、私は非常にラッキーな時期に留学させてもらったことになる。
posted by 赤井田拓弥 at 12:02| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月25日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 9


車を買う

 砂漠到着初日のショッピングでは、アパートから10マイル離れたスーパーに連れて行かれ、その距離に面食らってしまったが、その後、1マイルほど離れた近くに、Safeway というスーパーや、Thrifty というデパートのような店、マクドナルドやその他の店があることが分かった。

 とは言え、40度を超える気候の土地である。夕方になって陽が落ちた後でも、30度を下回るのは深夜になってからくらいである。とても歩いて買い物とかは無理であった。

 そこで、やはり車を買うことにした。

 先輩に手伝ってもらい、地元の中古車販売店をいくつか回った。そして、フォルクスワーゲンのビートルを千ドルで買った。今の千ドルは10万円くらいだが、当時はレートが1ドル300円だったから、30万円に相当する。

 30万円の中古車でも、今では安いと思ってしまうが、当時私は1か月200ドルくらいで生活していたので、千ドルは5か月の生活費に当たる。

 これで、私が日本から持ってきた金の大半が消えてしまった。

 車を買って半月ほどで、大学から10マイル離れた Indio という町 (最初にバスを下りた町) にひっこしたので、通学だけで1日に40キロくらい走ることになる。そして、私用やアルバイト(実はやってはいけない)などで走り回るので、1か月に3,000キロくらい走った。

 当時のガソリン代が1ガロン(3.78リットル50セントほどだったので助かっていたのである。今ではアメリカでもガソリンがけっこう高い。今だったら、とても大変だったろう。


ワイパーの不具合

 ほとんど雨が降らない地なので、ワイパーの具合がよくないことを調べずに買ってしまっていた。しかも、ワイパーの具合がよくないことに気づいたのは、3か月ほど後、その年の暮れにサンフランシスコに行ったときだったのだ。

 サンフランシスコからの帰り、ロサンゼルスの北のほうで大雨に降られた。

 具合の悪いワイパーをだましだまし使っていたら、パトカーに停められてしまった。切符を切られたが、それは「ワイパーを修理し、その修理証明書を工場に書いてもらい、それを1週間以内に裁判所に持っていくこと」という内容で、そのとおりにすれば、反則金は発生しないというものだった。
posted by 赤井田拓弥 at 16:51| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月24日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 8


日本人留学生たち

 ロサンゼルスから遠く離れた、この田舎町 (失礼) を私が選んだのは、(と言っても、入学許可が来たのがこの大学だけだったが) 田舎であれば日本人が少ないだろうと思ったからである。

 その前の年に大学の同級生がサンフランシスコに半年ほど滞在したことがあり、彼の話では、ロサンゼルスやサンフランシスコ、ニューヨークといった大都会は日本人だらけで、しょっちゅう日本語を話すことになるから、英語が上達しないということだった。

 不思議なことに、と言うか、この大学が無料だったということもあるかもしれないが、この1976年8月は、日本人留学生が大挙して、この College of the Desert (COD) にやってきた時だった。

 私が8月5日に到着したときには、ESL (English as a Second Language) の日本人留学生は3人だけだった。私を入れて4人。それから1週間くらいで3人がやってきた。そして、8月中にあと2人やってきた。その後、11月頃までに、さらに3人がやってきた。一挙に日本人社会ができてしまった。合計12人。


 この地に住んで1か月もすると、いろいろなことが分かってきた。そして、日系人や移住した日本人たちとも知り合いになり、その人たちの家を訪ねて夕食をごちそうになったりしているうちに、すばらしいところだと思い始めた。砂漠の風景がそれまで知っていた風景とまったく違っており、それにもまた魅力を感じ始めた。

 ESL のクラスもいちばん上に入れてもらい、会話だけでなく、ライティング、いろいろな assignment が出たりして、忙しく充実した生活が送れるようになっていった。

 「日本人は多いけど、うまくつきあい、この地の人たちや先生方、ほかの国からの留学生たちとしっかり交流していけば大丈夫だ。この大学で頑張ろう」 と思った。

 この頃にやってきた日本人留学生のほとんどは、また不思議なことに、私と同じように、2年後の1978年6月〜8月頃までいて帰国したのだった。

 今、この地を訪れ、交流のある当時の先生方と話をすると、「いちばん記憶に残っている日本人学生たちだ」と言われる。

 
posted by 赤井田拓弥 at 09:49| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月21日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 7


English as a Second Language の授業

 砂漠の町に着いた翌日、つまりアメリカに着いた日の翌々日から大学に通うことになった。住み始めたアパートは大学のすぐ近くだったので、歩いて通えた。10分くらいだった。
 アパートから大学の正門までは分くらいだったが、正門から ESL の教室までさらに分かかるのだった。


 いろいろな手続きのあと、すぐに、placement test があった。日本人の場合よくあることだが、当初特にリスニング力やスピーキング力が弱いため、下のクラスに入れられることが多い。
 私もご多分に漏れず、いちばん下のクラスに入れられた。

 English as a Second Language という授業と English as a Foreign Language とは違う。現在、アメリカの多くの大学で留学生を受け入れて行っている授業は後者である。前者は、移住者のための授業である。
 Palm Desert という町はカリフォルニア州の南部にあり、100マイルそこそこでメキシコとの国境である。

 先に移住した家族や親類を頼ってアメリカにやってきた人たちが、多く授業を受けていた。また、この記事にも書いたように、ベトナム戦争も影響していたのか、ベトナムからの難民も授業を受けていた。

 何が言いたかったのかというと、私が入れられたいちばん下のクラスは、英語能力がほぼゼロに近い人たちだったのである。英会話能力は私と同じくらいだが、読み書きと文法力は、ほとんどない。

 こんないちばん下のクラスに入れられてしまったことにショックを受けた。前の記事に書いた、スーパーやデパートが近くにないこと、とてつもなく暑いこと、そして、いちばん下のクラスに入れられてしまったことなどなどとも相まって、またしても、この大学を選んだことを後悔した

 しかし、授業料が無料だという大学をほかに調べていないので、どこにあるかも分からない。また、あったとしても、おそらく状況は同じだろう。そう考え、ちょっと我慢してみることにした。

 そして、1週間もしないうちに、「Takuya は、このレベルではない」と判断してくれ、5段階くらいあったクラスの上から3番目くらいに入れてくれた。それから、1か月もしないうちに、いちばん上のクラスになったが。日本人は、ほとんどこのクラスだった。

 今でも交流があるが、いちばん上のクラスの文法とライティングを受け持っていた先生は、当時20代後半で私より少し年上の女性だったが、この先生の文法の教え方とライティングのこまめな添削のおかげで、私の英語力は大きく伸びたと、今ではほんとうに感謝している。

 ESL の責任者だった先生と、この女性の先生とは、今でも交流がある。
posted by 赤井田拓弥 at 10:05| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月20日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 6


初めてのショッピング

 ずいぶん書いたようだが、まだ、アメリカ到着2日目の話である。ロサンゼルスのホテルで朝を迎えた日のことである。

 大学で ESL の責任者の先生に教科書を2〜3冊もらい、夕方近くに、その後1か月ほど住むことになるアパートに行った。そこに日本人学生(先輩たち)がやってきて、自己紹介をし合って、彼らがいろいろと世話を焼いてくれることになった。

 とりあえず、当座の日用雑貨を買う必要があった。

 アパートにベッドは付いていたが、枕やブランケット、シーツなどの寝具はなかった。そのほか、シャンプーや石けんなどの日用雑貨、そして、向こう何日分かの食料品 (牛乳やパン、ジャムなど) を買いに、彼らの車で連れて行ってくれることになった。

 前に書いたように、38度を超える日が156日もある町で、8月の初めは暑さのピークである。当時はまだエアコンの付いていない車も多かったし、ましてや学生である。彼らの車には当然エアコンは付いていない。のちに私が買った車にもエアコンは付いていなかった。

 大学のある町 (Palm Desert) から10マイル離れた町、実は、先ほどグレイハウンドのバスを降りた Indio という町だったが、そこのスーパーとデパートのような店に連れて行ってくれた。

 私は後部座席に乗った。窓が全開になっており、熱風が吹き込んでくる。息ができないくらいだった。私は、両手で口をおおったまま。これには閉口したが、この暑さには、このあと2年付き合うことになる。そのうち慣れて、今では、ときどきあの暑さが懐かしく思えることもあるが。

 実は、住み始めたアパートの近くにもスーパーやデパートのような店があることは後で判明したのだが、そのときは、私は、ショッピングは毎回10マイルも離れた町まで行かなければならないのかと、恐れおののいたものだった。

 いずれ車は買わなければならないが、どんな車がどの程度の値段で売っているのかも分からない。しばらく先輩たちに乗せてもらって買い物に行くことになるだろうが、10マイルも離れた町までではなぁと、愕然とした。

 早くも、この大学を選んだことを後悔し始めた。ただ、つれて行ってもらったスーパーから見た砂漠の光景には感動を覚えた。
 陽がかげっていくと、木が生えていない砂漠の山々が、だんだん紫色に変化していくのだ。これは美しいなぁと思った。

 こうして、アメリカ到着2日目が終わった。
posted by 赤井田拓弥 at 09:56| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月19日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 5


Palm Desert という町

 私が2年間(22か月)住むことになる Palm Desert (実際には Indio という町に住んだが) やその周辺(Coachella Valleyという)は、もともと砂漠地帯である。ここでの生活をつづっていく前に、この地のことを少し書いておこう。

 ロサンゼルスの東、約130マイルのところにあり、フロリダ州まで続く州間道 (interstate freeway) 10号線沿いにある。実際は、10号線から少し南にある州道111号線沿いにあるのだが。

 この州道111線 (One Eleven と呼んでいる) 沿いには、北のほうから Palm SpringsCathedral CityRancho MiragePalm DesertIndian WellsLa QuintaIndioCoachellaという町がある。

 この Coachella Valley は、valley なので盆地である。一帯はもともと砂漠で、映画 『アラビアのロレンス』 のロケ地にもなったところである。多くの地帯が海面下であって、砂漠でありながら地下水は豊富である。
 太平洋から高地を越えて吹いてくる風のせいか、乾燥して暑い。年間に雨が降るのは1日か2日くらいで、wikipedia によると、次のような表記がある。

 It has an average 335 days of sunshine, and total of 156 days of high temperatures over 100 °F (38 °C).
  「晴天の日が平均335日、摂氏38度を超える日が156日ある」

 残りの30日は雨かと言うとそうではなく、曇りである。雨は降らないが地下水が豊富なのと、コロラド川から引いた灌漑用水のおかげで、農業もさかんである。

 雨が降らず冬でも暖かいところなので、ハリウッドのセレブたちが大きな屋敷を持って住んでいる。ゴルフ場も多い。特に Palm Springs という町は有名で、何度も映画の舞台となっている。どれほどの大きさの屋敷なのかは、のちのちエピソードとして書いていくつもりである。

 私がこの町に着いたのは、1976年8月5日である。日本を出たのは8月4日だが、アメリカに着いたのも8月4日で、この砂漠の町に着いたのはその翌日なので、8月5日である。

 夏の真っ盛りで、暑い日だった。おそらく40度は超えていた。そして、この40度を超える天候は11月の半ばくらいまで続く。


posted by 赤井田拓弥 at 09:42| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月18日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 4


アメリカ2日目 ― その2
大学に到着

 ロサンゼルス空港近くのホテルからダウンタウンのグレイハウンドバスのターミナルまでタクシーで行き、そこから東に向かうバスに乗った。アリゾナ州を抜け、東海岸まで行くバスだった。バスの料金は覚えていない。

 言わば特急のようなバスで、ロサンゼルスを出ると、次に停まったのが Riverside という町。この町で少し休憩。アメリカ映画によく出てくるシーンである。
 その次が、大学のある Palm Desert という町から10マイルほど離れた Indio というところだった。

 初めて見るフリーウェイ。反対車線を行き過ぎたりバスを追い越していったりする、見たこともないモービルハウスキャンピングカーの超大型。家を牽引している)や、あこがれのハーレーダビッドソンや、ピーターフォンダ主演の映画『イージーライダー』に出てくるチョッパーなどを見て興奮した。
 今では、チョッパーを見ることはあまりない。

 Indio で降りて、Palm Desert に行くバスがあるかと聞くと、その日はもうないという。まさか10マイルを歩くことなどできず、またしてもタクシーに乗ることになった。2日で3度目だ。しかも長距離。

 この Indio という町には、私はのちに住むことになる。

 大学 (College of the Desertという) の前でタクシーを降りた。College of the Desert は、直訳すれば「砂漠の大学」である。

 大きなスーツケースを抱えて(まだキャスターは付いていなかった)、受付のようなところに行き、ESL (English as a Second Language) の場所を聞いた。キャンパスの西の外れだった。タクシーを降りたのが、キャンパスの東の外れだったから、キャンパスを横断したことになる。

 コミュニティ・カレッジなので、キャンパスはほかの州立大学のようには広くないが、それでも、私が通った(実はあまり通っていないが)北九大のキャンパスよりは、段違いに広い。

 ESL にようやくたどり着き、何度か手紙のやりとりをした人と会えた。ほんとうにうれしかった。

 この人は、当時30代半ばだったが、のちにこの大学の学長を務めた。今は引退して、悠々自適の生活だ。遠くに住む娘や息子のところに孫たちの顔を見に足繁く通っている、まだまだ元気な人である。奥さんは日本人だ。

 いろいろと話をし、次の日から早くも大学に通うことになった。教科書を何冊かもらった。You can keep them. と言われた。そのときは「ただであげる」という意味だと理解しなかった。

 日本人の学生も4人ほどいて、その人たちも紹介してもらった。そして、韓国の生まれ育ちで、あまり日本語がうまくない日本人と、しばらく room share をすることになった。
 
 
posted by 赤井田拓弥 at 10:15| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月17日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 3


アメリカ2日目 ― その1

グレイハウンドバスに乗って、大学のある町へ

 アメリカ到着の最初の夜は夜中に目が覚め、明け方まで悶々と過ごす結果となったが、明るくなって朝食を食べると、ゆうべ「明日にでも日本に帰ろうか」と思ったことなどすっかり忘れ、アメリカで過ごしていく希望も沸いてきた。ロサンゼルスの太陽の効果は高い。

 私が行こうとしていた大学がある町は、ロサンゼルスから東へ130マイルほどのところにある。アリゾナ州との州境の中間点あたりである。Palm Desert という町だ。旅客列車はないので、人は車で移動する。私には車はないから、グレイハウンドというバスで行く。

 グレイハウンドのバスターミナルに行くために、ドアマンにロサンゼルスのダウンタウンにはどうやって行けばよいのかなどを聞いたが、よく分からなかった。そして、結局、タクシーにしてしまった。

 どんどん金がなくなっていく。確か40ドルくらいだったと思う。

 タクシーの中で、運転手と少し話をした。なかなか通じず、そして理解できなかったが、初めての本格的な英会話で興奮した。
 タクシーの支払いを旅行者用小切手 (traveler’s check) で払えるかと聞いたとき、よく通じずに、手書きで示した。そのとき、cheque と書いたことを覚えている。大学では、イギリスつづりで勉強していたんだなと、今は思う。

 「traveler’s check で払えるか」と聞いたときに運転手は、Oh, sure. I can take it to my bank. のように答えた。

 この代名詞の所有格の使い方を、私はまだよく理解していなかった。my plane my bus には、「私が乗る飛行機、私が乗るバス」という意味があるのだが、私は、運転手の my bank を「彼が所有する銀行」と理解してしまった。

 「さすがアメリカ! 銀行を所有しながらタクシーの運転手をしている人もいるのかもしれない

などと思ったのである。


 いくらアメリカでも、そんな人は、たぶんいない。





yuzu12112011.jpg
ゆず
posted by 赤井田拓弥 at 14:31| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月15日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 2


アメリカ1日目 ― ロサンゼルスへ

 1976年当時にすでに羽田・ロサンゼルス間の直行便があったのかどうかは知らないが、私が乗った飛行機は、ハワイ経由だった。つまり、ハワイで入国審査を行い、それ以降は国内線扱いだ。

 東京にいるとき、私の父の従弟に格安航空券を手配してもらったのだが、それが片道切符だった。

 知識がなかった。配慮が足りなかった。2年もアメリカに行っているのであれば、片道切符で行き、帰りは向こうで買えばいいだろうくらいの認識しかなかった。

 しかも、ロサンゼルスで泊まるホテルも決めていなかったし、また、大学のある町でどこに泊まるかなども決まっていなかった。今考えると、ほんとうに冷や汗ものの渡航であった。

 今では、片道切符では、まず入国させてくれない。

 当時も同じような状況ではあったのだろうが、私は別室に連れて行かれ、いろいろと尋問を受けた。私の英語がおぼつかなかったため、日系人と思われる女性がやってきて通訳してくれた。

 「そんなに英語ができないのに、この国の大学に行くのか?」といった質問をされたようにも記憶している。

 学生ビザはあったし、大学から来た手紙や書類もすべて持っていたのが功を奏したのか、別室に連れて行かれた割には、すんなりと解放してくれたように思う。
 同じ飛行機がロサンゼルスに飛ぶことになっていたことも助かったのかもしれない。つまり、私の尋問に時間を取りすぎて出発を遅らせるわけにもいかなかったのだろう。

 こうして、ハワイを出てロサンゼルス空港に着いたのは、夕方に近い午後だった。ハワイで審査が終わっているので、空港を出るのは早かった。

 空港を出ると、ほかの日本人乗客たちはそれぞれ迎えの人たちがいたが、私にはいない。公衆電話の使い方も分からないし、バスでホテルに行く方法も知らない。結局、空港前のタクシーをつかまえ、「いちばん近いホテルまで」と言って連れて行ってもらった。

 あとで慣れてからロサンゼルス空港に行ってみたら、そのホテルまではほんの徒歩の距離だったが、そのときは、ずいぶん走ったように思う。一方通行でぐるっと回ったのかもしれないが。

 I don’t have a reservation, but do you have a room tonight?

 さすがに、この程度の英語は覚えていったので、ホテルのフロントでこれは言えた。部屋が高いのかどうかの基準も分からず、そのまま泊まった。

 初めての時差ボケ体験だ。部屋に入ると、疲れからすぐに寝てしまったが、夜中に目が覚めた。それから寝付けずに、朝まで悶々としていた。

 遠いところまで来たなぁ、知った人は誰もいないのだなぁという思いと、ハワイで別室に入れられて尋問を受けたことに対するショックなどが頭の中で錯綜し、ホテルの窓から、眼下を行き交うパトカーの警告灯を見ながら、明日の飛行機で日本に帰ってしまおうかなどとも思ったものだった。
 
 情けないアメリカ1日目だった。


a48皇帝ダリア.jpg
皇帝ダリア
posted by 赤井田拓弥 at 09:57| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月14日

カリフォルニアの青い空 砂漠での生活 ― 1


アメリカに行くその前に、東京でアルバイト

 小倉での年間の新聞配達(育英奨学生)と内容が濃いとは言えなかった大学生活を終え、1976年3月末、私は大学に年間の休学願いを出して、いったん屋久島に帰った。アメリカには、夏をめどに行く心づもりにしていた。

 屋久島では、親の畑仕事を手伝ったり、中学や高校の友人たちと飲んだりして1か月を過ごした。もう新聞配達はする必要がないので朝は8時頃に起きればよかったのだが、習慣で、しばらくは4時頃に一度目が覚めた。
 また、目覚めたときに外で雨の音がすると、滅入った気分になるのだった。新聞配達で何がイヤかと言って、雨ほどイヤなものはなかった。

 4月末に、東京へ出た。
 夏まで東京でアルバイトをして金を貯めるつもりだった。アメリカの学校は授業料が無料だとしても、生活費は必要だ。どれほどの金が必要なのかは考えもつかなかったが、貯められるだけの金は貯めておかなければと思った。

 長兄のアパートに住まわせてもらい、アルバイト探しをした。できるだけ時給のいいアルバイトを探した。運良く、アパートから私鉄の駅を3つ隔てたところに、シロアリ駆除の仕事を見つけた。ほかの仕事に比べて時給がよく、はっきりと覚えていないが、550円くらいだった。

 シロアリ駆除というのは、人家の床下に潜り、薬剤散布などをするものである。3人一組で行う。まず、先発の者が電気ドリルで柱に穴を空け、2人目がその穴に薬を注入する。そして、3人目の者がコルクのような木片でそれにふたをするという作業である。そのあと、床下全面に薬剤散布をする。

 一日に何軒も作業をすることがあった。残業代は出たし、夕方のある時間を過ぎると夕食手当も出た。夕食手当は決まった金額で、それよりずっと安い晩飯を食えば、ちょっとは浮く計算になる。そして、現場への行き帰りの車を運転すると、「運転手当」というものも出た。なので、運転して残業すると、一日で8千円を超えるような日もあった。

 アメリカの大学のほうは、東京に出てからも手紙をやりとりし、学生ビザ取得に必要なI-20も発行してもらった。そして、アメリカ大使館に行き、学生ビザも取得したし、航空券も手に入れた。あとは、出発するだけである。

 シロアリ駆除のバイトは劇薬を扱う仕事だったし、つなぎを着てほおかむりをし、マスクをした状態で、夏に向かう気候の中、長時間床下に潜っているのは辛かった。それで、この仕事は6月いっぱいで辞め、7月は、デパートの中元配達のバイトに切り替えた。

 中元配達のバイトも7月20日頃に辞めた。そして、ついに、1976年8月4日にアメリカに出発したのであった。


10082011cosmos-1.jpg
 
 
 
posted by 赤井田拓弥 at 22:14| Comment(0) | カリフォルニアの青い空

2013年11月13日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 15


アメリカの大学探しと新聞配達終了

 留年が決まった1976年1月16日の時点では、まだ行ける語学学校や大学は決まっていなかった。

 留年は決まってしまったので、アメリカに行かなければならないことは決定した。いろいろと資料集めをし、私の拙い英語で、いくつかの大学に手紙を書いた。
 すると、カリフォルニア州にある大学の ESL (English as a Second Language) プログラムの責任者から手紙が来た。
 「いつ来る予定か、今はどういう状況にあるのか」などなど、いろいろな質問が書いてあった。それで、すぐに返事を書き、その後、その責任者の人とは数度の手紙のやりとりが続く。


 第二次世界大戦後のインドシナ戦争を経て、長いベトナム戦争が事実上終結したのは、1975年4月だった。私が上記の責任者と手紙のやりとりを始めたのは1976年1月。ベトナム戦争終結のほぼ1年後であった。

 あとで、このベトナム戦争がなんとなく関係していたのではないかと知るのだが、手紙には「授業料は無料である」と書いてあった。
 とても信じられないので、再度手紙で問い合わせたが、「心配ご無用。授業料は要りません。教科書も無料だ」とあった。そして、学生ビザが取れるように、I−20を発行するので、いろいろと情報を送れとあった。


 3月になり、新聞配達のほうでは、奨学新入生への研修や、私の区域の配達を担当する後輩に配達手順やいろいろな業務の引き継ぎなどを経て、4年間の契約も無事終了した。

 こうして、私の 「鳥かごの詩」 生活が終わったのである。

 大学のほうは、規定の教科を修了し単位も足りていたが、卒論を提出していないので、私は留年した。級友たちは卒業した。

a52.jpg



 「鳥かごの詩」 としての記事は、これで修了です。今後、語学留学のアメリカでの生活を書いていくかもしれません。


a53.jpg

 
posted by 赤井田拓弥 at 10:01| Comment(2) | 鳥かごの詩

2013年11月12日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 14


人生のモラトリアム

 前回の記事にも書いたように、やくざ風貌をした新聞の読者に 「英語ができんのぅ」 と言われたことが決定打になったのだが、大学での勉強が満足できるものではないと自覚していたことなどもあって、就職を先延ばしにし、1年か2年、アメリカに行きたいという気持ちが、どんどんとふくらんでいった。

 「金はない。英語力もない。どうやったら留学が可能か」を模索し始めた。そして、就職を先延ばしにすることを、自分では「人生のモラトリアム」と呼んで、ひそかに楽しんでいた。
 不思議なことに、「私が非喫煙者である理由(わけ)」で書いたような、時間に対する病的な考えは少しずつゆるくなり、友人と飲んで話をすることも増やしていった。


 ある夜、飲みながら、友人の一人と「人生のモラトリアム」について話したことがある。私が卒業を1〜2年延ばそうとしていたことの意義についてである。
 その友人は、次のようなことを言っていた。

 オレはモラトリアムは損だと思うね。就職が2年遅れると、当然、初任給や昇給も、人に遅れを取ったままが続くことになるし、退職金や年金にも影響が出るのは必至。だから、オレは留年はしないし、留学もしない。


 私は、確かに金銭的には不利だろうが、2年間の経験が、人生でのいろいろなつまずきの際に思い出され、彩りを与えてくれるのではないかと考えているというようなことを話した。


 当時の北九大は、最大2年間休学できた。そして、休学期間中は授業料を払わなくてもよかったのである。この制度を使うことにした。

 なぜ卒業して就職浪人という方法を採らなかったかというと、当時、就職浪人は新卒に比べて不利だと言われていたからである。就職の応募条件に「新卒に限る」という文言があったりした。留年しても新卒という考えがあったように思う。

 卒業に必要な単位は、なんとかクリアしている状況ではあった。なので、卒論を提出すると、おそらく自動的に卒業となるであろうと思われたので、卒論を提出しないことにした。
 ただ、途中で状況が変化したり私の気持ちが変わったりすることもあるかもしれないと思い、卒論は書いておくことにし、提出期限の1976年1月16日正午までには、一応書き上げてはいた。

 この日(1976年1月16日)、いつものように朝刊を配り終えて部屋に帰り、ひと眠りして目覚めたのは11時頃だった。そして、出かける準備をしながら、12時まで悶々と過ごした。


 正午。

 まだ部屋にいた。そして、卒論の提出期限が過ぎていき、留年が決まったのであった。



a23unknown.jpg
 
ペンタスの花。 


a32pyracantha.jpg

ピラカンサスの実。

 
posted by 赤井田拓弥 at 11:28| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年11月10日

赤井田農事通信 ― 立冬を過ぎて


 立冬を過ぎて、私の畑仕事もそろそろおしまいです。
 冬前の最後の大きな作業は、エンドウ類の種まきです。もう少しあとでも間に合うのですが、ちょっと仕事も忙しくなりそうなので、昨日、精出して終わらせてしまいました。おかげで、今日は、腰やら筋肉やら、体じゅうが痛くて、散歩にも行けません。

 それで、今日は、火鉢に火を熾して、ジンジャーエール作りです。焼酎で割って飲んでもいいかなと。


20131110-zen.jpg

 これが、今の我が畑のほぼ全景です。
 手前の、支柱などが置かれている左側が少しだけ何も植えずに残っていますが、これは来年のジャガイモ用です。その左のトンネルの中は、小松菜です。今種まきをすると、正月の頃にちょうど柔らかい小さな小松菜が育ちます。
 このトンネルの左の緑は、人参白菜春菊です。その左に、野良坊が少し見えます。



20131110-nora.jpg

 長いトンネルと左のブロック塀のあいだに植わっている苗は、野良坊です。3月の半ばから4月いっぱいくらい、つぼみを搔いて食べます。
 長いトンネルの中は、ほうれん草水菜です。長いトンネルは、18メートルあります。三段跳びの世界記録とほぼ同じですね。

 そして、この長いトンネルを抜けると、そこは雪国です。



20131110-en.jpg

 エンドウ類です。いちばん左が絹さや、その右がスナップエンドウで、右の2列はグリーンピースです。
 不織布がかけてあります。これは春先までこのままです。 不織布をかけるのは、まず鳥に豆を食われないようにするためで、冬のあいだの霜よけです。春になるまで外しません。

 

20131110-blocco.jpg

 この頃のブロッコリーは育ちが早く、先週はまだまだだったのが、今日は、もう食べられそうなくらいに育っています。


 農作業がだいたい終わったので、これからは、近所の野山を徘徊します。


 
posted by 赤井田拓弥 at 15:48| Comment(0) | 農事通信

2013年11月04日

赤井田農事通信 ― 立冬の頃

冬支度を急ぐ

 「鳥かごの詩」をちょっとお休みして、今日は農事通信です。

 三連休の初日、おとといの土曜日にサツマイモ掘りをし、茄子ピーマンを片付けました。今年は、茄子もピーマンも、あまり収穫はよくありませんでした。

 芋掘りはけっこう疲れます。最初に蔓を取り払うのですが、それが実は大変なんです。

 土曜日の作業はここまで。そして、昨日の日曜日に、茄子とピーマンの跡とサツマイモの跡に耕耘機をかけ、次の植え付けの準備です。



20131104-onion.jpg

 近所の人にいただいたタマネギの苗の植え付けは、ほぼ400本。左にブロッコリーが見えますが、その向こう側にもあります。



20131104-haku.jpg
 
 左から人参白菜春菊です。この人参は葉を食べる用です。根を食べるのは別に作ってあります。人参葉の天ぷらは絶品ですよ。春菊は、今が食べ頃です。
 白菜は、まだ巻いていません。あと1か月くらいかかるでしょう。



20131104-green.jpg

 今年は、ネギがよく育っています。白菜が巻いたら、すき焼きが楽しみですね。



20131104-daikon.jpg

 左から、大根キャベツ人参です。キャベツは、下の写真のように巻いてきて、もう食べられます。人参は、もう少しですが、大根はもう食べ始めています。

20131104-cabbage.jpg



20131104-blocco.jpg

 ブロッコリーは、今はこんな感じです。これもあと1か月くらいで食べられるようになるでしょうか。



20131104-cosmos.jpg

 畑の際のコスモスも、まだ頑張っています。


 来週あたりにエンドウ類を種まきし、野良坊菜の移植が終われば、ほぼ畑仕事は終わりで、来年の春まで、採って喰うだけの百姓です。
 冬のあいだは近辺を徘徊します。

 
 冬ごもりで、今日は長火鉢の準備をしました。この写真は、古いものですけど。

IMGP0412.jpg
 


 
posted by 赤井田拓弥 at 15:48| Comment(0) | 農事通信

2013年11月01日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 13

私に留学を決断させた出来事

 大学に入るときは、新聞記者になって海外特派員になりたいという希望 (夢) を持っていた。外国語学部を選んだのも、そういった理由からである。
 一方で教師になりたいという気持ちもあったが、これは、履修届けを出すときに、早くも断念せざるを得なかった。なぜだか、教職課程の教科の授業が午後4時以降になっていたのだ。
 夕刊配達のために4時までには店にいなければならず、それ以降の授業を受けられなかった。


 1年次と2年次は、淡々と授業に出、単位を取ることと新聞配達をこなして過ごすことで日々を消化していった感じである。

 当時の北九大では、2年次から3年次に進むときに一次関門があった。つまり、単位数が少なかったり必要科目を履修していなかったりだと、2年次を留年させられるわけである。

 私は辛うじてパスし、3年次に進級できた

 「あのときは頑張って勉強したなぁ」と思える時期が3度ある。大学受験前の数か月とアメリカの大学でのある時期、そして、この2年次から3年次に進級する後期試験前の1か月半である。


 話は変わって、今では車の「3ナンバー」はごくふつうに見られるが、40年前の小倉では「3ナンバーには近づくな!」と言われていた。3ナンバーの車はやくざが乗っているというわけである。

 その3ナンバーの車を持っている家が、私の配達区域にあった。やや大きな屋敷でもあった。私がそういう目で見たからかもしれないが、そこのご主人は見るからにやくざっぽい風貌でもあった。


 3年の後半になってくると、友人たちとの会話も就職や進路のことが多くなってくる。みんなけっこう具体的な職種や会社のことを話題にしていたが、私は具体的に何も動いていなかった。単位だけはなんとかこなしていたが、優(A)、良(B)、可(C)の C ばかりだった。

 3年の後期の授業が始まってすぐのころだったように記憶しているが、夕刊を配達していると、上の3ナンバーの人に呼び止められた。

 「読売さん、あんた、米英やったかのぅ」 ← 「米英」の意味は、この記事をご覧あれ。

 「こんな英語の手紙が来たんやけど、見てもらえんかね?

 夕刊の配達途中だったが、その人が持っていた英文の手紙(便箋1枚くらい)をざっと読んだが、まるっきり分からない。そこで、「今配達中なんで、あとでまた来ます」と逃げた。

 配達を終え、晩飯を食ってから、辞書を持って出かけた。

 応接室に通され、そこで手紙を読み始めたが、ほとんど断片的にしか理解できない。焦った。それで、「持って帰って調べ直して来ます」と言ったのだが、そのやくざ風貌のご主人に

もうええ、あんた英語できんのぅ。オレにはだいたい意味は分かっちょるけ、ええんよ。もうちょっとはっきりさせたかっただけや

と言われてしまったのである。


 打ちひしがれて帰った。部屋に帰る道すがら、「このまま卒業はできない。就職もできない。なんとかしよう」と思い続けた。

 この出来事が、私が留学したいと決意した大きなきっかけとなったのは事実である。
 

 今になって思い起こすと、その英語の手紙は、いわゆるネイティブ・スピーカーが書いた英語ではなかったのかも知れない。つまり、文法的に間違いが多い手紙だったのかも知れない、とも思っている。
 
posted by 赤井田拓弥 at 19:31| Comment(0) | 鳥かごの詩