2013年10月23日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 12


私が非喫煙者である理由(わけ)― その2

 これまでも書いてきたように、新聞配達をしながら学校に通う 「育英奨学生」 の生活は、けっこう大変ではある。

 朝4時に起きて朝刊を配達し、朝食を食べて部屋に帰るのが7時半から8時ごろ。大学の1時限目は9時からなので、準備をして出ると、ちょうどいい時間に大学に着く。部屋から大学までは、歩いて20分ほどだった。

 夕方は4時までに店に行かなければならなかった。夕刊の配達が終わって晩飯を食うと、だいたい7時頃である。

 ふだんは、このまま自由な時間となるが、月末と月初めは、晩飯後に集金に出る。月末、月初めの日曜日はほぼ全日、集金に走り回っている。そして、月が変わると、定数表を作る。読者名簿である。それと、順路帳 (配達順路を示したもの) を書かなければならない。

 自分で配達するのだから、順路帳なんて不要では?と思われるかもしれないが、病気になったり急用ができたりすると他の者が配達しなければならないので、順路やどんな家なのかなどを記しておかなければならないのである。

 今みたいにパソコンやワープロがなかったから、すべて手書きで書き直しである。順路帳は、止めた読者を赤字で消したり、ますのあいだに書き込んだりしてはいたが。これも2〜3か月に1度は、しっかり作り直さなければならない。


 そんなこんなで、奨学生は1日に確実に8時間、集金や拡張業務を入れると、10時間労働になっていたように思う。これに加えて、一応学校にも行かなければならないから、時間がなかった。

 こうしたことが原因か、私の性格か、時間に対して病的にシビアに考えるようになった。

 まず、蒲団に寝なくなった
 蒲団に入って寝付くまでに10〜20分かかることがある。この時間がもったいないと思い始めた。もし寝付くまでに毎日10分かかったとすると、1週間で1時間、1年では50時間も無駄な時間を蒲団の中で過ごすことになる。

 これは大変な無駄だからと思い、睡魔で我慢ができなくなるまで寝ないことにした。そして、我慢できない睡魔が襲ってくると、夏はそのまま畳に寝転がって、ブランケットを掛けて寝る。冬はこたつだから、そのまま寝る。

 大学の3年次と4年次の2年間、私はこうやって蒲団無しで過ごした


 こんな考えをタバコに当てはめてしまったのだ。

 「シケモク」という言葉がある。途中まで吸って消したタバコの吸い殻や、その吸い殻を拾ってまた吸うことを言う。夜中にタバコを切らした友人たちが、これをやっていた。

 タバコを吸う時間がどうのと言う前に、私は、まずこのシケモクに嫌悪感を覚えた。タバコを切らした友人が下宿屋のほかの友人のところにタバコをもらいに行くのを見たし、また、逆にほかの友人がもらいに来るのを見たこともある。この時間がもったいないと考えた。

 また、タバコに火を点けて吸い、もみ消すまで数分かかる。1日に30本吸うとなると、けっこうな時間をタバコのために無駄遣いしていると思えたのである。


 そして、「こんなに時間を無駄遣いするタバコは、オレは吸わない」と決めたのであった。

 
posted by 赤井田拓弥 at 18:08| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月22日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 11

私が非喫煙者である理由(わけ)

 私はタバコを吸わない。

 この年齢で非喫煙だと、以前は吸っていたのを禁煙したと多くの人は思うだろう。しかし、私は今まで吸ったことがない。口の中に煙を入れたことはあるが、いわゆる inhale (肺まで吸い込む)はしたことがない。クリントン元大統領と同じだ。

  I smoked a pot, but I didn’t inhale.

 タバコは inhale したことがないが、アメリカに住んでいたとき、ほかの植物の葉を乾燥したものを inhale したことはある。


 40年前の男性の喫煙率は80%を超えていた。高校の同級生の中には、卒業と同時に、あるいはそれを待たずに吸い始めた者もいたし、大学の同級生にも吸う者が多かった。

 私もご多分に漏れずトライはしてみた。しかし、「タバコを吸うと疲れやすくなる」と言われ、止めた。私が最初に担当した区域には、階建てのアパートが何棟も建っている団地があったからだ。

 このアパートは、階段の両側が部屋になっている形式で、エレベーターはついていなかった。
 例えば、501号室と502号室は同じ階段を使って隣り合っているが、同じ隣同士でも、502号室から503号室に行くには、一度階段を下りて隣の階段を使って昇らなければならない。

 当時の読売新聞は、九州ではまだ新参者で、アパートの上の階に、なぜか読者が多かった。なぜなのかを説明していると長くなるので省略するが。

 毎朝毎夕、この階段を幾段も駆け昇らなければならないことを気にしたのである。

 余談だが、この階段昇りで鍛えられたのか、大学2年次に体育の授業で1,500メートル走があったが、私はクラスで1位だった。


 ま、そんなこんなで喫煙者にはならなかったわけだが、実は、私がついぞタバコを吸わなかったのには、もうひとつ大きな理由(わけ)がある。

 それは、次回に。

 
posted by 赤井田拓弥 at 10:30| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月20日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 10

やくざに勧誘されかかる

 大学も3年になると、出なければならない授業も少なくなってくる。

 夜遅く寝て朝早く起きているので、朝飯を食って部屋に戻って新聞を読んでいたりすると、眠たくなってくる。「大学に行く前にちょっとだけ寝よう」 と寝てしまうと、目が覚めるのが昼過ぎだったり、疲れが溜まっているときなどは、目が覚めたときには、もう夕刊直前だったりすることもよくあった。

 ♪♪ 昼寝をすれば 夜中に眠れないのは どういうわけだ〜〜♪♪

 朝から夕刊直前まで寝てしまうと、やっぱり夜は眠れない。本を読んだり勉強(一応)をしたりしていると、夜中の時頃には小腹がすいてくる。

 私が住んでいた部屋から軒ほど隣に、朝まで開いている喫茶店兼スナックバーがあった。小腹がすくと、ときどき、この店に焼きうどんを食いに出かけた。

 ちなみに、焼きうどんは小倉が発祥の地らしい。

 このスナックバーの経営者がやくざと知り合いだったのか、いかにもその筋の人というような人たちが、夜から明け方にかけて入っていた。

 あるときなど、客と経営者 (マスター) が言い合いになり、マスターがアイスピックを手に持って客を店の外まで追いかけて行ったこともあった。

 ある夜、いつものように夜の2時頃に焼きうどんを食べに行った。

 いつものテーブルに一人座って本を読みながら食べていると、テーブルの向かいに人が座ったのが分かった。私が「はい?」という感じで顔を上げると、30歳くらいの、見るからにその筋の人と思える人に、「兄さんは学生か?」と言われた。「そうですけど」と答えながらその人の手を見ると、小指が途中から欠けていた。

 小指が途中から欠けた人にこれほど接近されたことがなかったので、やはりビビった。その人に「どや? 大学は楽しいか?」などを聞かれて、当たり障りのない返事をしていると、「なぁ、兄さん、やくざにならんかね」と言われた。

 「いやぁ、まだ単位も残っちょるし」などと答えながら、質問をはぐらかしたりしていたが、そのうち、

 「うん、兄さんは目がやさしいけ、やくざにはなれんの

と言って、その筋の人は、私を解放してくれた。

posted by 赤井田拓弥 at 14:30| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月18日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 9


新聞配達を辞めたいと思う気持ちと「

 これまでも書いてきたように、奨学生制度というのは、新聞配達をしながら大学や専門学校、予備校などに通うものである。
 入学金授業料を新聞社が学校に直接払い、学生は販売店から食費を天引きされた給料をもらう。部屋は無料で貸してくれるのがふつうであった。

 新聞社が払った入学金や授業料は、「貸与」 という形になっており、もし契約期間である4年や2年を待たずに辞めてしまうと、それまでに 「貸与されていた」 金額を即座に(1か月以内くらいに)返却しなければならないことになっていた。
 今ではどういう制度になっているのかは知らない。

 朝早く起きて新聞を配達し、大学に通い、また夕方には帰ってきて夕刊を配り、集金業務定数表(読者名簿)や順路帳(配達順路を示したもの)を書くこと、拡張業務などをやっていると、まさに時間がない。当然、友達づきあいも希薄になる。辛いのは確かである。

 途中で辞めてしまう者も、当然いた。

 私は、この制度の期生である。年もこの制度をやっていると、新聞社でも、新入生がいつ頃辞めたいと思い始めるのか、一度辞めるのを思いとどまったとしても、また、いつ頃再発するのか、といったようなことは熟知していたのであろう。私たちが辞めてしまおうかと思い始めることになると、不思議と何らかの催しものが行われるのである。

 新入生が入って1か月くらいで 「歓迎会」 がある。辛い新聞配達をしながら学校に通おうというのであるから、当然、親元は裕福ではない。41年前の九州である。歓迎会で豪華な食事にありつくと、「続けよう」 という気になってしまうのである。

 秋には、プロ野球のオープン戦が九州にもやって来て、その観戦をしたり、読売巨人軍の選手たちのサインボールをもらったり、いっしょに写真を撮らせてもらったりする。

 そうした中に「アタック・イン・サマー」というのがあった。夏休みのあいだの奨学生による拡張業務合戦である。

 夏休み明けに、北九州と福岡を合わせた奨学生(当時300人くらいはいた)の成績優秀者が、表彰されるのである。


 この「アタック・イン・サマー」の一環で、夏の最も暑い時期の1週間ほど、他店交流で拡張業務合戦というのもあった。

 朝時頃に他店に行き、区域の担当者に案内されながら、「あの家はM新聞で、うちから半年前に乗り換えた」 とか、「あの家はA新聞で、今までA新聞以外を読んだことがないらしい」 などという情報を得ながら、新聞の勧誘業務をやるわけである。

 昼過ぎごろに販売店 (他店) に戻り、ちょっと豪華な昼飯を食べながら、購読契約書を提出して勧誘料を精算してもらう。
 当時、半年以上の契約を取ると千数百円がもらえた。1週間くらいの他店交流での拡張業務合戦で、勧誘料が月の給料を上回る強者もいた。

 夏休みの 「アタック・イン・サマー」 のあいだでは、かなりの臨時収入を手にする者も多かった。


 こういった臨時収入が、「辞めたい」という気持ちを萎えさせる要因ともなっていたのであろう。
posted by 赤井田拓弥 at 17:26| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月16日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 8


味噌汁

 当時の読売育英奨学生の場合、朝夕の食事は販売店が出してくれていたことは、以前にも書いた。そして、食事代は給料から引かれていた。

 夕食は、奨学生がみんな揃ったところで一斉にとることが多かったが、朝食は、いちばん早く配達し終えた者が、夜から作り置いてある味噌汁を温めて食い始めていることがほとんどだった。

 この味噌汁だが、私が配達していた年間、具はまったく変わらずに同じだった。賽の目に切った豆腐細切りの薄揚げ豆腐だけ。これ以外の具が入ったことは、年間一度もなかった。

 そのときは、「他の具を入れてくれてもいいのになぁ」 と思ったものだが、今、昼定食を外で食うとき、たまにだが、この具の味噌汁に行き当たることがある。その当時のことが懐かしくフラッシュバックするのである。

 朝刊を配達している約時間、いろいろなことを考える。大学の授業のことや将来の仕事のこと、はたまた……。

 夏はよい。夜明け前は涼しいし、ある区域を走って配ったあとにバイクに乗って走ると、爽快である。それに、小倉の街の東にある足立山から朝日が昇るのも見られる。

 冬は、走っていると少しは暖かくなるが、バイクに乗ると、やはり寒い。それに足立山から朝日が昇る前に配達を終えてしまうので、薄い朝焼けくらいしか見られないのだ。

 日が昇る前に部屋に戻って寝、夕刊の直前に起きてくるとすでに日は西の山に沈んでおり、太陽を見ないまま過ごす日が数日続くことすらあった。


 冬の配達のときは、思考能力が低下しており、上で述べたようなことをあまり考えない。ただひたすら、早く店に帰って温かい味噌汁が飲みたいと思って走ったものだ。

 ある冬、非常に冷え込んで池にはが張っているような日に、池に落ちたことがある。別に酔っていたわけではないが。

 氷の張った池に落ちて全身がずぶ濡れになっているところに、バイクに乗って走るから、その体感温度たるや……。最後の一軒を配り終えて販売店に戻るまで4キロほどあったが、それはそれは遠くに感じたものだった。

 何も考える気力すらない。ただただ味噌汁が飲みたかった。


posted by 赤井田拓弥 at 19:02| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月15日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』 ― 7

新聞配達と飲酒

 「ゆうべは飲み過ぎて、どうやって帰り着いたのか分からない。気がついたら家にいた」 という話をよく聞くが、私には、この歳になるまでそんな経験がない。
 酔いすぎて歩くのが辛くなり、タクシーで遠路を帰ったことは何度かあるが、もちろん運転手に道順を教えられるほどの意識は残っている。

 前後不覚になるまで飲まない、というか、そういった飲み方が私にできなくなったのには、新聞配達があるのだろうと思っている。

 朝刊は、朝時頃に販売店に届く。そのときまでに、当番の者 (だいたい人で組んでいた) は店を開け、自転車やバイクを店から外に出して、新聞を仕分けられるようなスペースを作って準備をしておかなければならない。

 新聞が届くと、トラックから下ろし、配達区域ごとに部数を分けてカウンターに並べる。折り込み広告があるときは、配達の担当者が自分の区域の分だけ新聞に折り込んで出る。

 朝時にまでにはアルコール分が完全に抜け切るまではいかなくても、バイクに乗って配達に出られるくらいには回復していなければならない。なので、時過ぎまで飲んでいるようなことはほとんどないのである。自然と、その時間になると、もう進まなくなるのであった。

 朝刊の配達がない休刊日 (当時は年に回しかなかった) の前の晩でも、こうした飲み方は変わらなかった。

 こうした飲み方が習慣になってしまったのか、社会人になっても前後不覚になるまで飲むようなことは、ついぞしなかった。

 ただ、新聞配達をしていたあいだに2度だけ、朝まで、というか時頃まで飲んでいたことがある。

 時頃まで飲んでいて、時過ぎからバイクに乗って配達だから、完全に飲酒運転である。今では、12時頃まで飲んでいて時に運転をしたら、飲酒運転になるだろうが。

 3
時頃まで飲んでいると、時には起きなければならないから、もう寝ない。新聞店でトラックが来るのを待つ。

 2度のうち1度は、田植えが終わったばかりの初夏だった。

 バイクに乗って販売店を出たばかりのときはそんなに酔っているようには思わなかったが、走って配達をしているうちにだんだん酔いが回ってきた。そして、狭い田んぼのあぜ道をバイクで走っているときに運転を誤り、水を張った田んぼに落ちた

 半分も配達し終えていないあたりで、バイクの荷台には、まだ100部以上の新聞が残っていた。それが田んぼの水ですっかり濡れてしまったのだ。

 「これはとても配れない!

 一気に酔いが覚め、田んぼからバイクを引き上げて、販売店に引き返した。そして、主任に事情を話し、新聞社の本社 (当時は、本社で印刷していた) に車で行ってもらい、買ってきた。

 追加の購入はもちろん無料ではないが、その代金を販売店に請求された記憶はないので、店が負担してくれたのであろう。

 
posted by 赤井田拓弥 at 15:31| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月11日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』― 6

ノーヘルで捕まる

 1973年に、大学は2年に進級した。前回書いたように、新聞配達でも変化があった。配達区域が変更になったのである。1年間親しんだ読者と別れるのはちょっと寂しかったが、販売店の方針ではしかたがない。

 新しい配達区域は、販売店から紫川という大きな川を渡った集落で、まだ田んぼや畑が多く残っている田舎の集落であった。

 なぜ私がその集落の担当になったかと言うと、私が自動二輪の免許を持っていたからである。店を出てから配達し終えて戻るまで17キロ走る。とても自転車や50CCのスーパーカブでは回りきれないのである。だけど、それまで、その区域を誰が何で配達していたのかの記憶はない。

 70CCのカブを新しく買ってもらった。当時(1973年)は、まだ自動二輪でもヘルメットの着用義務はなかった。たぶん、高速道路では義務化されていたとは思うが。ふつうの公道もヘルメット着用が義務化されて減点の対象になったのは1975年からである。

 ヘルメットをかぶったまま新聞を持って走るのは難儀なので、1975年に義務化されたあとも、私はヘルメットは持って出たが、ハンドルにくくりつけたまま走っていた。

 私が新聞配達を辞めたのは、契約の4年が過ぎた1976年3月末である。それまであと何か月かという1975年の暮れに、ノーヘルで捕まってしまった。

 反則切符を切られ、減点になり、確かあと1点で処分の対象となるところまで来てしまった。

 これがトラウマになっているのかどうか分からないが、今でも、ノーヘルでビクビクしながらバイクに乗っている夢をときどき見る。
 

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posted by 赤井田拓弥 at 19:22| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月10日

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』― 5

 家庭教師の巻 ― その2
 シャトル添削


 週に1回2時間、中学3年生の娘さんに英語を教えることになった。

 5月の連休明けあたりから始めたが、2〜3回教えるうちに、前任者たちがさじを投げたのが分かってきた。私もほんとうにさじを投げたくなったが、読者の娘さんである。そんなことをすると、その家だけでなく近所の何軒かが新聞の購読を止めてしまうことになりかねないし、その近所を配達することもはばかれることになってしまう。

 中学3年生の5月の段階で、be動詞の過去形を知らなかった。ほかの受け身形現在完了形など、中心的な文法など、まず知らない。そして、週に1回だと、前の週にやったことをすべてしっかり忘れ去ってくれていた。

 それで、前の週にやったことを復習していくわけで、これだと、前の週にやったことから一歩も前進しない。次の週に行くと、またしっかり忘れ去ってくれており、2度目の復習となる。つまり、5月の1か月でまったく前に進んでいないことになった。
 かと言って、週に2回も家庭教師をする時間はとても取れそうになかった。

 これではとても受験に間に合わない。

 そこで私が考えたのが、添削である。次の方法を採った。

 1.問題集を買い、ページを決めて、夜のあいだにその娘さんにやらせる。
 2.その問題集を朝までに新聞受けに置いておいてもらう。
 3.私が朝刊の配達の際にその問題集を引き上げ、夕刊の配達までに、大学の授業の合間に添削する。
 4.赤字を入れた問題集と、その夜にやるべきページを書いたメモを、夕刊といっしょに届ける。つまり、シャトル添削である。
 5.週に1度の家庭教師のときに、その1週間にやった部分の弱点補強の講義をする。


 朝刊の配達のとき新聞受けに問題集が入っていないこともあったが、そのときは、ピンポンして呼び出した。もちろん、本人ではなく母親が眠そうな目をこすりながら現れ、「ゆうべは疲れてできませんでした。今夜は必ずやるように言います」とか「昨日は体育祭の練習で疲れていまして」という言い訳を聞くことになるのだが。

 こうやって毎日数ページずつこなし、1学期が終わるまでの2か月くらいで、問題集を3冊ほど終わらせた。2年生の3学期の英語の成績が、5段階のだったのが、になった。
 本人もがぜんやる気が出てきたらしく、夏休みのあいだも続けた。

 2学期になると、なんとクラスの子たちが、その娘さんに英語の分からないところを聞きに来るようになり、教えることができるようになってきたという。そして、2学期の通知表は、「」だった。

 3学期になっても続け、高校入試までには10冊を超える問題集をこなしたと思う。

 3年生になった時点では「○○女子校にも入れないだろう」と言われていたが、その娘さんは、北九州市でもそれなりの進学校で、大学の私のクラスにもその卒業生がいた高校に合格した。

 彼女が高校に入学したことと、私の配達区域が変更になってその読者のところに配達しなくなったこともあって、そのシャトル添削は終了した。

 それから3年、ちょうど私が小倉を出るときにその娘さんは高校卒業の年だったが、その区域を配達している者から、その娘さんが大学に合格したという話を聞いた。

posted by 赤井田拓弥 at 14:37| Comment(0) | 鳥かごの詩

元 「読奨生」 の西の空  『鳥かごの詩』― 4

家庭教師の巻

 1972年4月に読売新聞奨学生となって新聞配達を始め、大学生活とのリズムも分かり始めてきた頃、たぶん、最初の集金のときだったかもしれない。ある読者に、こう話しかけられた。

 「読売さんは、米英ですか

 読者の人たちは、私を 「読売さん」 と呼ぶのがふつうだった。そして、「米英」 というのは、北九州大学(現 北九州市立大学)の外国語学部米英学科のことである。今では、これが 「英米学科」 に変わっている。「」 と 「」 が入れ替わっている。

 その読者の中学3年生の娘さんの家庭教師をしてもらえないかというものだった。詳しく話を聞いてみると、すでに3人に家庭教師を頼んだことがあるが、3人ともさじを投げたということ、中学の先生には、北九州市にある、当時レベルが低いことで有名だった女子校にも通らないだろうと言われているということだった。

 都会では、いや今では地方でも、私立高校のほうがレベルは高いのがふつうになってきているが、40年前は、一部の有名私立高校を除いて、私立は県立高校の滑り止めの役割だった。つまり、その娘さんは行く高校がないと言われたということになる。

 「もう頼める人がいないんです」 というように、その娘さんの母親は意気消沈の様子だった。

 私には新聞配達もあるし、大学にも行かなければならず、とても家庭教師までやれるような状況ではなかったが、「もう頼める人がいないんです」 と言われると、何とかしなければと思ってしまった。それで、週に回だけ、時間教えることにした。


(続きはまた)

posted by 赤井田拓弥 at 13:52| Comment(4) | 鳥かごの詩

2013年10月09日

メキシコの農夫と時間の話


 私のオフィスの壁にかかっているカレンダーの向こうに郵便料金表が貼ってあります。定形外の郵便を出すとき、重さを測り、そのカレンダーを持ち上げて料金表を見るのですが、そのたびに思い出してしまう笑い話があります。

 こんな話です。

   ↓

 メキシコ旅行に行ったアメリカ人がホテルを出て街に繰り出しましたが、腕時計を忘れたために時間が分かりません。仕方がなく、道端にすわって野菜を売っていた農夫に時間をたずねました。

 すると、その農夫はそばに立っているロバの腹に垂れ下がった陰嚢をちょっと持ち上げ、「3時15分だ」と言いました。そのあと、アメリカ人がホテルに戻って時計を見ると、時間は合っていました。

 「どうしてロバの陰嚢を持ち上げたら時間が分かったのだろう」と不思議に思ったアメリカ人は、今度は腕時計を持って先ほどの農夫のところに行き、「今、何時かね?」と聞くと、また農夫はロバの陰嚢を持ち上げ、「5時10分だね」と言ったのです。

 今度も、時間は合っていました。

 そこでアメリカ人は、その農夫に金を握らせ、「なぜ、そのロバの陰嚢を触ると時間が分かるか教えてくれないか」と頼みました。

 すると農夫は言いました。

 「ここに座ってロバのキンタマを持ち上げてみなせぇ。教会の時計台が見えるから」と。
 
posted by 赤井田拓弥 at 09:45| Comment(0) | 雑文

2013年10月08日

『鳥かごの詩』― 3 元「読奨生」の西の空


 私が読売育英奨学生として、大学に行きながら(??)新聞配達をする生活を始めてすぐの大きな事件は、1972年(昭和47年)16日の川端康成の自殺(とされている)だった。

 夕刊は通常、夕方4時頃に販売店にトラックで届く。夕刊の配達はだいたい1時間40分から2時間程度だから、遅くとも6時頃には夕刊の配達が終了している。

 しかし、この日、4時前から販売店で待てども待てども新聞が届かず、届いたのは6時過ぎ。それから配達に出たが、ようやく慣れてきた道順も、まわりの明るさがいつもと違い、どうにも勝手がよくなかった。それに、遅れたことを一軒一軒詫びながら配達したので、いつもよりずっと時間がかかった。

 と、ここまで書いてネットで検索してみたら、197216日は日曜日だった。日曜日には夕刊はない。
 川端康成が亡くなっているのが発見されたのは16日の夜だったらしい。朝刊が遅れた記憶はないから、月曜日の朝刊には記事が間に合わなくて、川端康成のことは載せずに発行したのだろう。そして、月曜日に新聞社は大騒ぎになり、夕刊の発行が遅れ、上記のようなことになったと考えられる。

 だから、夕刊が遅れて大変だったのは、次の日の月曜日だったことになる。

 北重人氏の『鳥かごの詩』を読んでいて、1かしょだけ腑に落ちないところがある。氏のほかの時代小説では「時代考証が行き届いている」という評価だし、私もそう思う。しかし、『鳥かごの詩』のなかに、主人公の康男が日曜日に女の子とデートしていて、夕刊の配達があるからと帰るシーンがある。

 『鳥かごの詩』は、北重人氏が高校を卒業して、新聞配達をしながら浪人生活を送った昭和41年(1965年)が舞台となっている。しかし、調べてみると、日曜日の夕刊は全国的に昭和40年の月に廃止されている。

 日曜日に夕刊を配達していないはずの北重人氏が、なぜこんな描写をしたのか分からない。
posted by 赤井田拓弥 at 15:16| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月03日

『鳥かごの詩』― 2


 昨日の記事の続き。

 私が通う大学に近いからということで、小倉区城野4丁目にある読売新聞販売店に勤務することになった。小倉区は、その後1974月に北区と南区に分割され、城野4丁目は小倉南区となった。

 先週土曜日(28日)に、販売店があった辺りを歩いてみた。


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 販売店があった辺りは、すっかり様変わりしていた。店の裏にカエルがよく啼く池があったが、そこが埋め立てられ、ドラッグストアや量販店ができていた。販売店があったあたりは、その量販店の駐車場につながる引き込み線になっていた。



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 販売店の前にあった店が、まだ残っていた。夕刊配達のあと、暑いときにコーラファンタをよく買って飲んだものだった。また、この店の息子(当時高校生)も我々の店で新聞配達をしていた。



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 配達を始めてすぐに住み始めた部屋は、ここにあった。駐車場になってしまっていたが。先輩の話だと、もともと女郎屋だったそうで、私はその2階の四畳半の部屋だった。
 ミュンヘンオリンピックのとき、小さい携帯ラジオで、男子バレーの準決勝(対ブルガリア線)の大逆転劇や東ドイツとの決勝戦を、興奮して聞いたのも、この部屋だった。


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 1年ちょっとで、別の部屋に移らされた。上で述べた池の裏手にあった、1階が倉庫になった2階建ての家で、その2階に住んだ。
 この家のあとも駐車場になっていた。



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 2度目の部屋も1年足らずで出ることになり、次に移ったのが、1階が天ぷら屋さんの2階。けっこう広くて、6畳の部屋に、3畳ほどの板の間があった。
 今ではお寺の入口になっているが、私の部屋があったのは、ちょうど横断歩道の標識が立っている辺りに面していたと思う。



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 このビルは、私の部屋の道をはさんだ向かいにある。なんと、そのころからあったパン屋さんが残っていた。当時パン1個が50円で、昼飯に個くらい買って食っていたものだ。
 昨日の記事にも書いたが、朝夕の食事は、販売店で出してくれていた。

 このビルの1階にラーメン屋さんがあったが、その部分だけなくなって、駐車スペースのようになっていた。


 小倉を出たのは、1976年3月である。

 
posted by 赤井田拓弥 at 16:21| Comment(0) | 鳥かごの詩

2013年10月02日

『鳥かごの詩』― 1

 『蜩ノ記』で直木賞を受賞した、北九州市出身の葉室麟氏の随筆を読んでいて、北重人という作家の存在を知った。もう亡くなってしまったが、この作家も葉室氏と同じように50歳を過ぎてから創作活動に入った人だ。

 61歳のときに亡くなったので、実質的には数年の活動で終わってしまったが、その数点の作品がすばらしい。アマゾンのカスタマーレビューやブログなどで見ても、「江戸の雰囲気が実に良く伝わってくる確かな時代考証」などのように、非常に高い評価を得ている。

 この北重人氏の作品のほとんどは時代物だが、なかに、唯一と言ってもよい現代小説がある。それが『鳥かごの詩』である。

 この小説は、「あれから、四十年が経つ。」という文で始まる。私の場合は41年が過ぎた。

 作者が山形の高校を卒業し、浪人中に東京の下町で新聞配達をして予備校に通ったときの自伝的な話で、ほぼ事実に沿っていると思われる。翌年に大学に合格し辞めていくが、その1年間に出会った人たちとの交流が描かれている。

 私も屋久島の高校を出て北九州の大学に入学したとき、新聞配達を始めた。読売新聞の「育英奨学生制度」というやつである。今では、読売新聞西部本社では、この奨学生制度は廃止してしまったようだ。

 私がやっていた頃のこの制度は、大学の入学金授業料などを新聞社が負担し、奨学生は、朝夕刊の配達集金業務拡張業務などをして、店から給料をもらうものだった。
 その給料で生活できるので、家からの仕送りは必要ないのである。

 店からは部屋をもらい、朝食と夕食が出る。食費は給料から天引きされる。私が勤めていた配達店では、学生全員が個室を与えられていたが、中には相部屋の店もあったようだ。


 『鳥かごの詩』でも、主人公が配達を始めた日に倶利伽羅悶悶刺青のこと)の人を見てびっくり仰天するが、私も、まったく同じように配達の初日に上半身裸で、背中にすばらしい刺青の人を見てびびってしまった記憶がある。

 北九州の街は、『無法松の一生』に代表されるように、気の荒い人が多い街。背中にすばらしい絵を描いた人は、その後の配達のときに何人も目にすることになる。


 今では、新聞にチラシを入れる作業も機械化されているようだが、私のときは、まだ『鳥かごの詩』にも描写されているように、二つ折りになった大きなチラシに他のチラシをまずはさみ、それをまた新聞に入れ込んでいく方法を採っていた。


 先週末に小倉に行く用事があり、新聞店や住んでいた部屋があった辺りを歩いてみた。
 それは次の記事で。

posted by 赤井田拓弥 at 19:09| Comment(0) | 鳥かごの詩